「起源」を考えることの深い意味 ―ダニエル・L・エヴェレット著『言語の起源』(2)
ダニエル・エヴェレット氏の『言語の起源』について、こちらのnoteの続きである。
『言語の起源』は言語がいつどのように始まったのか、という問いを問う一冊である。
この問いを問うにあたり、一番の難しいのは「言語」とはなにか??ということである。
特に「起源」を問う場合、世界最初の「言語」と今現在の「言語」が完全一致で全く同じものなのか?それとも違いがあるのか?という所も問題になる。
例えば「世界初のiPhone」であれば、開発途中のプロトタイプから、量産試作機、あるいはジョブズがはじめてiPhoneを発表したあのイベントで手にしたマシンがApple社のどこかに保管されているだろう。そして現在発売されているiPhoneは世界初のそれとは性能も何もかも大きく異なるのであるが、しかし「同じiPhone」である。
なぜそういうことが言えるかと言えば、それはiPhoneを作っている人たちが、自分たちで「これがiPhoneだ」と宣言しているからである。
iPhoneとiPhone以外を区別する権能は完全にApple社にある。
一般ユーザが最新のiPhoneを見て「こんなのは私がほしいiPhoneじゃない」などと言うのは自由であるが、しかしその発言にiPhoneとiPhone以外の区別を遂行する力はない。
世界初の言語
では、世界で最初の言語はどこにあるのか?
世界で最初の言語は、どこかの会社の金庫に保管されていたりしない。
さらに、言語と言語以外を区別する権能を独占する法的人格も存在しない。
エヴェレット氏が『言語の起源』で論じているように「言語」をホモ・サピエンスによる音声のシンボル的利用に限るのか、それともホモ・エレクトスによるシンボルの表出にも広げるのか、というのはまさに言語と言語以外の境界線をどこにひくのかという問題である。そしてこの境界線を「仮に」に引いてみることこそが、まさに科学として言語学が反証可能性に開かれた仮説の提示として遂行する行為なのである。
さて、言語とiPhoneが似ているところと言えば、それはどちらもバージョンアップ、変化していくということである。言語というものは「静止したもの」ではなく、動き、変化するものであるということ。
巷でよく言われる「正しい◎◎語」などというのも、あくまでも「現在」の多数派のものの言い方であるという意味で「正しい」と主張しているのであり、永遠不変の未来永劫変化しないカタマリであるということではない。
動き、変容すること自体が、「言語」の極めて重要な特長なのである。すなわち変容可能性に開かれているダイナミックなプロセスであるからこそ、言語は、常に「新しい意味」を創始することができるのだ。
これは実は、あらゆる「問い」に共通する話である。
なにかの事柄を、言葉によって「問い」へと変換した瞬間に、問われる対象が他の対象から区切りだされ、ピン留めされる。
その「区切りだし」のために引かれる境界線の形は、決してひとつではありえない。対象と非対象の境界線はいくつも引くことができる。
境界線を引くという営為を、あくまでも「仮設(説)的」なことと捉え、他の複数の可能性探る可能性を開き続けること。それこそが科学の叡智である。
エヴェレット氏といえば『ピダハン』である。
ピダハン族の言語と、私たちの言語を比較することが、まさにこの区別の区切り方、境界線の引き方の複数性を明るみに出す。
そして境界線の引き方こそが、人類の「文化」のエッセンスなのであり、境界線を引く動きを反復し、中断し、ずらし、新たな空間で反復を始めるということが、人類の知性の精髄である。
レヴィ=ストロースが「神話的思考」として捉えようとしたことや、ユングが『変容の象徴』で論じようとしたこと、最近では中沢新一氏の『レンマ学』で論じられていることは、まさにこの境界線を引き、反復し、シンボルを区切りだし、そうして束の間安定した一貫性という外観を呈したシンボルたちを、再び多数の「線」が交差する運動のなかに送り返すという人類の営みに焦点をあわせた試みであると言えるのではないか。
言語も含めたシンボルの運動としての「意味」という謎。その面白さはこのあたりにある。