横浜線は何度も境川を超える
ブリコラージュ(Bricolage)。といえば、私が尊敬して止まないレヴィ=ストロースが「野生の思考」を解きほぐすために使った絶妙な言葉である。
最初にこの言葉を知ったのは、たしか中沢新一氏のなにかの本、おそらく『カイエ・ソバージュ』あたりだったはずである。当時まだレヴィ=ストロースを読む前である。
『カイエ・ソバージュ』の中古価格が暴騰している。と思ったら、これは全5巻を一冊にまとめたほうである。バラ売りの方は入手性が高い。
ブリコラージュというのは、日曜大工的に、身近に転がっているありあわせの材料を、ありあわせの適当な道具で組み合わせ、つぎはぎでなにかを作ってしまうこと。そんなふうに説明される。
私たちが自分の環境、自分たちの世界の成り立ちや動き方、その法則性を「言葉で」説明しようとする時、利用可能な手持ちの言葉、祖先たちから受け継がれた言葉と、言葉の組み合わせを、さらに組み合わせて新しい思考を展開する。その組み合わせ方にパターンというか、癖があり、それが人間の「精神」なるプロセスの動き方というか揺らぎ方の特性を顕にしている、といった話に進むわけである。
レヴィ=ストロースの議論を詳しくたどっていくと、この「身近に転がっているもの」が何である(と私たちが認識できるの)かとか、この「組み合わせ」ということが何をどうすることなのか、とか、話が外観は複雑に、論理的にはシンプルになっていくのであるが、それはまた後の話。
最初にブリコラージュという言葉で「ああ、あれか」と私がイメージしたもの。それは横浜線である。
横浜線
神奈川北部や、東京でも旧南多摩郡に縁がある方でないと、全国的にはあまり、ほとんど、馴染みの無い方が多い路線であろう。
観光地横浜の桜木町の駅。
東京都心方面行きの電車に乗り込もうとする修学旅行生のグループがいる。見れば真ん中のホームに緑の電車が始発で止まっている。これは幸いと席に座ってしまい、おしゃべりに興じていると、いつの間にか西の方に急カーブである。
横浜線と京浜東北線の分岐駅である東神奈川駅は、パッと見てもどこだか分からない、きわめて統一感のあるさりげない首都圏国鉄スタイルの駅である。
不安になって、隣に座っている乗客(町田市在住)に聞いてみる。
「この電車、東京に行きますか?」
町田市民は不機嫌そうに答える。
「そりゃ、行くよ。」
嘘は言っていない。きわめて正確な言語運用である。
そうして不安なママ揺られていると、電車は一瞬、東京都町田市をかすめたかと思うと加速しながら瞬間的に境川を渡り、神奈川県に戻る。相模原市の広大な米軍施設の横を走り抜けたかと思うと、なぜかまた境川を渡り、多摩丘陵に穿たれたトンネルを抜け八王子に到着である。
もし私が酔狂な修学旅行生なら、班員を煙に巻いてそのまま八高線に乗り換えるだろう。
横浜線。
今でこそ関東でも最新型の電車が走っているが、私が子供の頃はカラフルだった。
カラフルといっても、素敵なパステル柄が描いてあるということではない。他の路線の車両を集めて繋いで走らせていたらしいのである。京浜東北線からは昔の阪和線と同じ青。山手線からは奈良線のような緑。たしか中央線や大阪環状線と同じオレンジもあったはずである。黄色を見た記憶はないがあったのかもしれないし、無かったのかもしれない。いわゆる通勤五方面を一本に撚り合わせたような具合で、車両ごとに色の違う列車が、何度も何度も境川を渡るというわけである。
ひとつの編成において、前から数両は緑、その後が青、そしてまた緑、といった具合である。正確にどういう組み合わせだったかは覚えていないので、いつか調べてみたいところである。
と思ったら、Wikipediaに簡単な記述が見つかった。
いずれにしても、青でもあり緑でもある、東京でもあり神奈川でもある。という両義的で媒介的な存在なのである。
区別され、両義的なものの居心地の悪さを絞り出している東京都と神奈川の境というのも、もともと土着的にパッチワーク状に「つなげられて」いた韮山代官所の管轄地である「韮山県」などを、旧律令国の区分に従ってまた切り分けなおそうとしてみた結果である。
今日当たり前のような区別も、切ったりくっつけたり、また別に切ったり、の繰り返しの中にある。
区別しようとするところに、両義的なものはいくらでも転がり出てくる。漫然としていると気づくことができないその両義的なものの存在を、眼の前に走り込んでくるブリコラージュされた電車が突如具現化する。こういうのを日常性のなかに仕込まれた芸術の様式とでもいうのだろうか。
それは日常性というのもが、あくまでも「認識」されたものであること、つまりパッチワーク状にゆれる「思想」であることを思い出させたかと思うと、またすぐ走り去ってしまう。
おわり