意味は「線」である―ティム・インゴルド『ラインズ 線の文化史』(3)
人類とは?、人類の文化とは?、特に来たるべき文化についての知とは?
「線」ということに映し出して、そうした問いを立てる試みである。
インゴルド氏が「線」ということで何を考えようとしているのかは、こちらのnoteに書いた。
線には「まがりくねった徒歩旅行の軌跡」のようなものから、「透明な直線」まで、様々なものがある。
そして多様な線の中で、特にどういう線が、あるべき理想的な線なのかという線についての理念が、ある時代、ある社会の文化を象徴することがある。
軌跡としての意味、連結器としての意味
「線」は人類の文化の核心である「意味(意味するということ)」について考える手がかりにもなる。
ちなみに意味は「意味というもの」が「ある」と考えるのではなく、「意味する」という「ことが動いている」と考えたい。という話をこちらのnote に書いたが、インゴルド氏の「線」の話は、この動きとしての意味という話と重なるのである。
インゴルド氏が提唱するふたつの「線」の理念に対応した、二つの意味のあり方を考えることができる。
第一に「まがりくねった徒歩旅行の軌跡」としての意味。
第二に「透明な連結器」としての意味である。
大きくまとめると、人類にとっての意味は、もともと第一のまがりくねった徒歩旅行の軌跡として様々な場所で多様にうごめいていた。意味の経験の多くを占める言葉の経験が、声と、ごく少数の手書きの文字によって織りなされていたからである。
ところが、この500年ほど、印刷技術即ち文字の大量複製&配給技術による言葉の複製活字化にともなって、文字が、発話の状況や刻まれた状況とは無関係に「それ自体」として「予め決まった正しい意味」を人間に伝えてくる透明な媒体として感じられるようになった。
手書きと、活字の大量複製―文字を刻む二つの技術(技術用具)
この二つの言葉のあり方、二つの意味のあり方は、手書きと活字の大量複製、文字を刻む二つの技術(技術用具)の違いからも説明できる。
インゴルド氏は「身体を切り離す機械/身体運動の痕跡を残す筆記具」という二つの記述の用具を対比させる。
まず身体を切り離す機械というのは、「構造自体に作動原理が内蔵されてい」て、「あらかじめ決められた」最小構成単位が再生される仕組みである。
具体的には「オルガン」や「活版印刷」、そして「タイプ打ち」がこうした機械であるとインゴルド氏は論じる。
そこでは書き手即ち言葉を発する人間の身体の動きと、その物質に刻まれる線との間は「機械のメカニズムによって遮断され」る。そこで「手の運びが紙面上にその形跡を残すことはない」のである。
この「機械」は、言葉から、意味から、つどの多様な身体を切り離す。
次に、身体運動の痕跡を残す筆記具である。「筆記具」としてインゴルド氏が挙げるのは「ヴァイオリン」そして「鉛筆」である。
「楽音や文字形態が、器具に埋め込まれた作動原理によって入力に対する出力として関連付けられておらず、エネルギーに満ちた経験を積んだ人間主体から直接発せられる」
第一の機械と第二の筆記具。
この違いは、線を生み出すのが「器具に埋め込まれた動作原理(p.220)」であるか、そうではないか、という点にある。
器具に埋め込まれた動作原理
印刷の場合、現代のプリンターでも、誰がプリンターを操作しようがいつも同じ文字が打ち出される。まれにインクが滲んだり文字が歪んだりするのは機械の故障やエラーであって、パソコンから印刷ボタンを押した人の身体に関わることではない。
プリンターでは文字の線は「器具に埋め込まれた動作原理」によって作られる。
人間がやっていることは、この器具に対して、埋め込まれた動作原理を作動させるよう指令を出すことである。印刷する機械は「注意することも感情を示すこともなく、打ち出される印刷記号は何ら人間の感性の軌跡をとどめるものではない」のである。
これに対して、かすかにざらついた表面に手書きをする「筆記具」は、人間の身体の動きによって線を作りだす。鉛筆での手書きでは「身体動作」と「注意深さや感情」が線にあらわれる。手書きの筆記具による記述とは「全身を使う重労働」であり「純粋な身体行使」である。
機械それ自体の原理によって量産される「意味」
そしてこの第一の機械それ自体の原理によって量産された線としての文字たちは、言葉についての理想像を書き換える。
即ち、言葉というものは声よりも「文字」であり、文字には書き手とは無関係にそれ自体として「正しい意味」が予めパッケージされているはずだ、という言語観である。
ここで「意味」ということが、個々人による迷いながらの曲がりくねった徒歩の痕跡として都度描かれるものではなく、透明な連結器を介して瞬時にアクセスできる予め確定されたものになる。
誰かの身体と誰かの身体の間で、「声」に出される言葉では、その「意味」を確定するために、声の発し手と聞き手とのあいだにある様々な情報が参照されてきた。声としての言葉の意味は、声に託された「文字列そのもの」ではなく、その声の音そのものと声を出している当人の身体の動きとの組み合せ、そしてなにより聞き手との関係、周囲の状況に応じて限定されていた。
そうであるから、「同じ言葉」であっても、誰と誰がどのような対面状況で、どういう声の大きさで言うか、抑揚をつけて言うか、身振り手振りはどうなっているかによって「意味」が変化するのである。
この意味は、複数の人間が織りなす試みと迷いが歩んだ軌跡であり、その軌跡は語り手と聞き手が意味を探る旅を歩みつづけるかぎり、いつまでも固まらず、繋がり続け、伸び続け、変化しつづける。
ところが、これが予め固められた活字から大量複製された文字となると、印刷された文字の配列そのものが意味を閉じ込めたパッケージに見えるようになる。
そうして多数の話し手や、多数の声を離れて「言葉そのもの」が、ある一つの正しい意味を持っているはずだという発想が広まることになる。
言語学(論)的転回と「断片化したライン」
言語論的転回後のいわゆるポストモダンの言語観は、この言葉そのものが意味を担っているという発想を否定した。代わりに、意味は語と語の関係、互いに区別される語と語の組み合わせと、その組み合わせの重ね方次第で決まり、変化する、と考えたのである。
インゴルド氏は、このポストモダンの言葉を「断片化したライン」と呼ぶ。
断片化したラインは、近代の透明な連結器、精神と物質、人間と自然を直結する線という想定を破壊したものの、かつての狩猟採集民の探索の軌跡や「徒歩旅行のまがりくねったライン」とは別のものである。
インゴルド氏によれば、徒歩旅行のラインが場所から場所へ前進するものであるのに対して、断片化されたポストモダンのラインは断絶した地点から地点へと飛び移るものである。
徒歩旅行の軌跡が「住み着くことの実践にともなう曲がりくねり」であるのに対して、断片化したポストモダンの線は「ばらばらになったジョイント=接合部品がはずれた切片」であるという。
透明な連結器は外れたが、外れたまま、そこに新たな軌跡を生み出す「歩み」が未だ動き出していないということであろうか。
再び「軌跡」へ―線を走らせる
インゴルド氏は「糸や紐の結び目・ループによる表記から、鳥や動物の足跡のような刻印的軌跡による表記へ」と「表記」の歴史を振り返る(p.109)。
これらの表記はいずれも、紡ぐこと、結ぶこと、織ること、といった人間の身体の動き=運動の軌跡であった。
糸から織られていく表面上のラインは、縦糸に対する横糸の往復運動の積み重ねによって描かれる。
「糸が軌跡に変化する」ことで「表面が形成」される。「軌跡が糸に変化する」と「表面」は「消失する」(p.18)。
今日、活字からの大量複製に慣れてしまった私たちは、「本来的に動きである線」を「本来的に静止したものだ」と思い込んでいるとインゴルド氏は指摘する。
ラインは…運動し成長するものとして知覚される。それなのに今日私達が問題にするラインの多くがかくも静態的に見えるのはいったいどういうわけなのか?(p.19)
これが『ラインズ 線の文化史』の最初の問いであった。
今再び、「糸から軌跡へ」、「軌跡から糸へ」の「相互の変形」の運動を私たちが改めて生きられるようにすることが必要なのである。
インゴルド氏は私たち自身を含む「生命」そのものが、そうした運動としての線であると言う。とはいえ生命もまた個体から個体への「系図のラインを点の連鎖として示す」ダーウィンの図式の中で、「個々の点のなかにあるものとして」描かれてきた。
ここに「個体」と「個体」を「つなぐ生命のライン」を巡って、「個体」が「つなぐ」動きを分離し、どちらがどちらに先行するのかを考えるという問題を立てるのか、それとも「つなぐ」動きと「個体」を不可分のひとつの出来事と見て問題を立てるのか、異なる二つの立ち場が生じることになった。
これに対してインゴルド氏は次のような「生命」の「線」のイメージを提唱する
しかし、こうした手続きを反転させてみてはどうだろう。生命を扇状に広がる点線ではなく、人間であろうとなかろうと、あらゆる生命が紡ぎ出す無数の糸によって織りなされる多様体として想像してみたらどうだろう。p.20
点と線を対立させる必要はないし、ましては点と線どちらが先でどちらが後かなどと考える必要もないのである。
点は無数の線が交差し結ばれる動きの痕跡である。
インゴルド氏は、現代に蘇った徒歩旅行の軌跡の例として、パウル・クレーの線を上げる。パウル・クレーの線は「活動的」であり、その「ラインは散歩に出かけている」と(『ラインズ 線の文化史』p.251)。
パウル・クレー自身による「線」の思想は、『造形思考』でみることができる。
あるいは「カオス」を複雑に絡み合う糸としてモデル化する科学のアプローチも、「変化するカオスを絡み合う大量の糸が織りなすテクスチャであると考える」点で、新たな無数の線をそこから生み出す線の思想といえる。
それはおそらく、中沢新一氏が『レンマ学』で取り上げているような、華厳の哲学、「インドラの網」のイメージにもつながるものである。
おわり