とっさに口をついて出る言葉
3歳の長男と話していると、妙なデジャブに取り憑かれることがある。
彼の口から出る言葉が、親の私が口に出している言葉と同じなのである。
そして時々思う。
「その言い換えは、やってはダメだ…」
言葉にならない経験を、どの言葉に置き換えるのか
日常の様々な経験とそれにともなう感情を、どういう言葉に置き換えることができるのか。
他者がひしめく日常の経験は、しばしば理不尽で不条理で、元来「なんとも言えない」苦々しい感じや、「言葉を失わせる」悲惨な様相を呈する。
しかし、かなり理不尽な経験でも、私達はそれをなにかの言葉に置き換えて説明してしまうと、どうにか飲み込めてしまうこともある。
そのままではどう扱ってよいかわからない異物感のあるモノや状況の経験も、自分の慣れ親しんだ言葉に翻訳することで、一応既知のもの、過去に受け入れてきた経験の記憶の仲間として迎え入れることができてしまう。
それも意識的に自覚的に、明晰さのもとで理路整然と進んでそうするというよりも、そうせざるを得ないという感じ。自然に言葉の方が意識の中に立ち現れて、どろどろとした受け入れ困難な現実を、自動的に言葉に置換してくれる、私はただそれを呆然と見物させられているという、前意識的なプロセスが動いている。
自分が説得されてしまう言葉たちは、誰から
自分は、自分を納得させるときに、説得するときに、あるいは騙すときに、どういう言葉でそれをやっているのか。あるいは自分は、どういう言葉でやられると納得させられ、説得させられ、あるいは騙されてしまうのか。
どうやらそのための言葉のレパートリーは、一番最初は、ごく幼児だった頃の身近な大人から伝受されているらしいのだ。
私がそれこそ3歳くらいで、理不尽な経験に泣き叫ぶ子どもだったころに、私の親がどういう言葉で、その経験を飲み込むように説得したのか、ほとんどまったく覚えていない。おそらく言語的な記憶はこの後に、ある程度の言葉を注ぎ込まれて、基本的な意味のマトリクスが脳内の神経の構造に書き込まれた後に、動き出すのだろう。
私は、私が私自身が考えて言葉を繰り出していると思っているやり口は、誰か私が子どもだった頃の特定の大人から、与えられたものだ。その与えられたもののを使って、私は世界を、存在を、私自身を、他者たちを、言い換え、分類し、整理し、説明しようとし初めたのだろう。
そしてある程度長じると、それまでの子どもの言葉が急に嫌になり、大人の言葉を求めてメディアに手を出すのである。本を読んでみたり、映画にはまってみたり、最近ならYoutubeを徹夜で見たり。
どんな言葉で、世界と渡り合っていけるようになるのか。
言葉にならない経験を、強引に言葉に転換するような驚異的な言葉というのは、思考のパターンや、考え方の癖を形作る。
その言葉の獲得には、身近な、直接耳に言葉を注ぎ込む人が大きく関わっている。
子どもは、自分の責任ではまったくないところで、経験と折り合いをつけて生きるために必須の道具である言葉の最初の断片を、与えられたり、与えられなかったりする。
もちろん、言葉は、長じてからいくらでも身につけ直すことができる。そのために本があるのだ。ただしその本の沼の深みへとわざわざ踏み込んでみようという妙な言葉への「信頼」は、本を読み始める前にもともと持っていた、あるいは与えられていた言葉たちによるものかもしれない。
言葉の流れの痕跡のような「私」
あるいは考えてみれば、大人だって、身近な誰かの言葉遣いを真似て、無自覚のうちに真似るつもりもなく真似て、喋っていたりしないだろうか?
どういう言葉を繰り出す人たちと一緒に居るか。それが思考のパターンを、その出来栄えを、左右する。
本を読むのも、ツイッターで誰かをフォローしてタイムラインを作るのも、おそらくここに関わっている。放っておけばぼんやりと消えていってしまう頭の中の言葉を、繰り返し繰り返し励起し、とっさの時に自動的に動き出し、経験を意味へと転換するマシンとしてメンテナンスしておくために、私達は外から、いつもと同じ誰かの、いつもと同じような言葉を注ぎ込まれることを望んでしまう。
そうすることで、言葉の流れの痕跡のようなものとしての「私」が、日々崩壊し、流れてしていくのを修復し続けていく。
生き延びるための言い換え
こんなことを考えながらも、では実際、私自身はこの子にどういう言葉を「与える」ことができているか。いや、理不尽にも「与えてしまっているか」。
3歳に満たない幼児だと、特に感情が高ぶっている時など、理路整然と論理的に説明する言葉を繰り出しても、ほとんど「聞いていない」様子である。いや、実はしっかりと記憶されているのかもしれないが、確認しようがないのでわからない。聞いていないという前提で進めざるを得ない。
「いま、あなたに、親の言葉という他者が憑依しようとしているよ」
などと言っても、どうやら意味不明である。それもそのはず。この理屈を理解できるのは、自己と他者、能動と受動、シニフィアンとシニフィエ、あるはデノテーションとコノテーションといった意味素の対立関係を知り、それをいろいろな向きで重ね合わせて比べることができなければならない。
であるからして、私がとっさに子どもに押し付けてしまうのは、「とりあえず生き延びるための言い換え」に尽きる。
だいじょうぶ、こわくない、いたくない、食べていい。
さわらない、あぶない、食べちゃダメ、やさしく。
こういう何気ない言葉が織りなすごくシンプルな対立関係の網目が、この子が世界と折り合うための技術である彼自身の言葉の、最初の出発点になっっていく。
どうやら私は、たいへんなことをやってしまっているようだ。
いや、これは私に限らない。すべての大人が、大人同士でも、やっていることだ。
人類は数万年に渡ってこれを繰り返してきたのだろうし、その結果、いままで生き延びて、数もたくさん増えたのであるが、それは「厳選された良いことば」の伝受に成功したからなのか、それともたまたま偶然だったのか、これはまあ、とにかくよくわからない。
そうして眼の前の子どもに言うのである。
「ごはんを食べないと大きくなれないよ」
思い起こせばこれは、私自身が子供のころによく親から言われ、おもしろくないと憤っていた言葉だったような気がする。
しかし、何も食べずに保育園に行くのは可愛そうだろう。そう思うと、つい口をついてこの言葉が出てしまうのだ。
そしてこの子も将来、もし自分の子供を持つことがあったなら、おそらく同じようなことを言うのであろう。
おわり
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