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8月31日の夜に。あるいは、すべての夜に。

 子供の頃「学校」が好きではなかった。

 自分はいま、とある大学の非常勤講師として授業をもっている。夏休みが終わり、後期の授業が始まる。教える側になってみるとこの夏休みの終わりは、新しく出会う学生たちにあの話やこの話をしてみようと画策する、少々楽しみな時間だったりもする。

 とはいえ自分が学生の頃、それも中学生、小学生だったころの鮮明な記憶を遡れば遡るほど、学校は好きではなかった。

 ゾッとするほど嫌いということではなかった。朝起きると学校が嫌で嘔吐することもなかった。学校に行く理由も問うこともなく、行かないという選択肢の可能性を考えることもなく、ほぼ皆勤、毎朝遅刻もせずに登校していた。それでもまったく「好き」ではなかった。

好きでもなく嫌いでもなく

 嫌いでもないが、好きでもない。好きか嫌いかどちらかを選べと問われても答えようがなかった。学校はその他の「好きなもの」と同じではなかったし、その他の「嫌いなもの」とも同じではなかった。

 好きでもなく、嫌いでもない。まったく興味が持てない場所だった。学校が「自分に関係のある場所」だと全く思えなかった。

 学校で飛び交う他の子供達や先生たちの声も、教科書に並んでいる文字も、そのほぼ全てが、自分のからだを通り抜けてどこかへ行ってしまうように感じていた。なにより自分自身が、学校に居る自分というものをリアルに実感することができなかった。

 ただ毎日の給食の牛乳の飛沫が床だか机だか、どこかに残っていて、そして緩慢に分解されていくあの匂い。そこへ床に分厚く塗られたワックスの匂いが混じる。そのワックスのおかげで透明な膜が張って、たくさんの机や椅子を水面に浮かんでいるかのようにさせている床をみれば、フローリングの隙間に消しゴムの屑だろうか、なにか得体の知れないものが引っかかっている。そういう物質的なリアルさはありありと迫ってくる。

チョークの粉

 一番リアリティがあったのは、午後の教室、西日避けに閉じられたカーテンがばさばさと揺れ、その隙間から差し込む光で教室を舞うチョークの粉がキラキラと光りを乱反射させながら踊る。

 いつも半分「上の空」で、そういう西日に照らされてキラキラと光りながら落ちることもなく浮かぶこともなく揺れている無数のチョークの粉を眺めていた。

 クラスメートがこちらに向けてなにか言っている。

 先生がこちらに向けて怒鳴っている。

 教科書の文字がこちらの目に飛び込んでくる。

 そのどれもが、一瞬まったく私とは関係のない他人事のように私を通り抜ける。その言葉はどれもまったく私には「刺さらない」。自分の意識はチョークの粉と一体になって、漂いながら、その通り抜ける言葉たちを眺めている。

 と、次の瞬間、「あっ!これは返事をしなければ!」と正気に戻る。

 チョークの粉になって遊離していた意識が、身体に戻ってくる。そして笑顔を作り、口を開け「ごめんなさい、聞いてませんでした!」などと言ってみるる。しかし急なことなのでつい舌がもつれてしまい、品のない笑い声が巻き起こる。

 そんな瞬間の繰り返しでしかなかった。

 そうした時間を、憎悪するほど嫌いということでもなかった。

 どちらかといえば「気がついたら奇妙なところに紛れ込んでしまったな」というくらいの感覚だ。

 好き嫌い以前。好きか嫌いかと聞かれても、好きな部分も嫌いな部分もすぐには思いつかないほど、自分の知らない世界、関わりのない世界のように感じていた。毎日そこに居るにもかかわらず。

 小学校のころ、ある先生はそうした私の様子を敏感に感じ取り「異常」だと判断した。そして親を呼び出してなにかを注意したようだ。後で親からもなにかを言われたような気がするが、よく覚えていない。大方「普通にしなさい」とでも言われたことだろう。とはいえ、自然に自然に、普通にした結果がこれであり、異常と言われたその言葉ですら、まったく自分と関わりのないことのように、通り過ぎていった。

 異常も正常も何も。私からすれば、学校の皆さんの方がよほど、次から次へと意味のわからない言葉を自在に繰り出すことができる不思議なものに思えてならなかった。

「この人達はなにをそんなに楽しそうに、大真面目にやっているんだろう」

 ただただ不思議で少し興味もあった。その不思議な世界が正常だというなら、その不思議さをただただ眺めているだけの私は確かにおっしゃる通りの異常だな、と納得して、思わず笑ってしまった。

 そして大人たちは余計に怒りだす。

 その様子が滑稽でならなかった。

大真面目がまかり通る

 中学に上がると、部活、受験、先輩後輩の上下関係の世界。

 ここにきて「上の空」がバレるとまずいということに気づいた

 とはいえ急に上の空が治るはずもなく、相変わらず中身は上の空。そこに飛び交う言葉たちが自分と関係のあることに思えず、どうでも良かった。それでも、他人から見える姿の上では「マジ」な中学生らしくしておいたほうが身のためだということはわかった。

 最初のうちは、何を言われたかよくわからなくても、とりあえず「はい!ご指導ありがとうございます!」と大きな声で叫んでおけば良いという作戦をとった。しかし、いつもこれでは話を聞いていないことはすぐバレる。

 中学において、「上の空」のままで居ながら「上の空ではないように見せる」一番手頃な方法はなにか。すぐに答えがわかった。「ひたすら何かに打ち込んでいる姿」を演じ、喜怒哀楽をそれに絡めれば良いのである。

 打ち込む対象は何でも良いというわけではない。部活か、勉強だ。とはいえ、上の空の私に運動部は難しい。先輩の命令への反応が遅れて殴られるのは目に見えている。そうなると勉強しかない。

 中学校が、それでも小学校よりも単純で対応しやすかったのは「受験」という最終ミッションが課せられていたことだ。受験に寄与するかどうか。という価値基準ですべてが測られる世界だった。これは半分上の空の私のような人間にとってはすこぶる具合が良いのである。ハッとした瞬間に、「ごめんなさい、受験勉強のこと考えてました」といえばよいのである。そう言っておけば、「上の空」で居ても、誰も文句を言ってこない。これには非常に救われた。

 幸い「上の空」は「勉強」と合っていた。

 勉強というのは、小ぶりの煉瓦をひとつひとつ重ねてピラミッド式に階段を作っていくようなもの、あるいは編み物のようにいくつもの糸を一点交差させていくことだろう。

 自分の頭の中にあるごく限られたいくつかの言葉。

 まず教科書の言葉ひとつひとつを、自分の頭の中の言葉に言い換えていく。「わかる」というのはそういうことだ

 わかるは「分かる」だが、それは外から入ってくる教科書の言葉を、自分の頭の中の言葉の組み合わせに合うように細かく「分け」て並べ直すことである。だから「わかり方」なんて十人十色のハズなのだが、それをわからない大人も少なくないらしい。自分と他人の区別がうまくついていないのかもしれない。

 話がずれてしまった。

 そうして少しづつ、自分の頭の中の言葉に、新しい言葉がぶら下がって、つながっていく。

 一度自分の頭に加わった言葉は、今度はそれが、別の新しい言葉の煉瓦を重ねる土台になり、新しい糸の結び目をそこにぶら下げる点になる。

 勉強して、知識が増えていくということはおそらくこういうことだ。

 漂うチョークの粉ひとつひとつを区別して、それぞれの動き方に名前をつけては楽しんでいる「上の空」の頭には、教科書の言葉を自分の言葉で「名付け直す」というのは新しい、ひとつの冗談のようなものだった。

勉強をして、頭がおかしいと褒められた?いや、笑いものにされた?

 中学の教科書に書いてある言葉は、小学校のそれよりも、より細かく、多くなったことだ。よく覚えていないが、中学に入ってすぐ、国語の教科書に感動した覚えがある。そこには象徴表現が溢れていた。

 小学校の教科書が、どうも単語と漢字を覚えさせるために無理にひねり出した文章(失礼)の列挙にしか見えなかったので、わざと読み手を迷路に誘い込むような象徴表現が散りばめられた教科書は、素朴に面白いと思えた。

 その頃からうすうす感じていたことだが、私自身の特性として、話し言葉は頭の中を通り過ぎてしまうが、書き言葉であれば何度も読み返すことでその意味を自分に関係のあるものとして、自分の手持ちの言葉につなぎ直すことができた。
 今、脳の情報処理の仕組みに関する研究に触れることができるようになってみれば、私の「上の空」はおそらく脳に原因がある。「声」はすぐに消えてしまうのに、「文字」を繰り返し読めば消えないという、このあたりも明らかに脳の接続の癖が絡んでいる。

 もちろん、当時はそんなこととは思いも至らなかった。いつも教室で、恐ろしい顔をして教科書を睨んでいた。当時の自分にとって教科書を「読む」ということは、その字面をたどることではなく、そのひとつひとつの文字を単語を、自分がその時点で知っている言葉に置き換えていく作業だった。

 どなたかの先生にがクラス全員の前で言った「勉強が趣味だと!変わった奴だ!」という言葉。

 どういう真意で言ったのか知らないし、特に知りたいとも思わないが、これには大変に救われた。

 趣味かどうかはよくわからないし、趣味という言葉の意味もピンとこなかったが、この先生の言い方がひねりの効いた表現であることはわかった。趣味、つまり楽しみごとは、苦しむことと対比される。そして勉強は一般的には苦しむことの方だ。趣味としての勉強。世間とは逆の捻くれたことをやっている。こんなおもしろいことはない。

 少々上の空かもしれないが、勉強をしている。そしてテストでそこそこ点数をとる。それさえできていれば、この場所で、ずっと「上の空」で時間をやりすごせる。
 放り込まれたぬるま湯の中で時間をやり過ごす、というやり方が、いかにとんでもない危険な代物であるか、後になって知ることになるのだが、当時はなんの疑問も持たなかった。 

今なら言えること

 結局、「上の空」のまま生きられる隙間をなんとか作り出しながら、延々と本を眺めているという学校の時間を過ごした。その副産物として、自分の頭の中の手持ちの言葉に、新しい言葉たちをつなぎ直すことができた。それが後々、なんとか生きる支えになろうとは。

 もし今、学校がゾッとするほど嫌い、という生徒に出会ったならば、私はひとりの教師として、「逆に、好きな場所、好きなことはなに?」と尋ねるだろう。

 もし「好きなことは?」の質問にはっきりと答えることができる子ならば、とにかくその好きなことを「異常」と言われるくらいに追求したらいい。そして自分がいかにそれが好きであるか、無理解に批判してくる家族や世間に対して、手を替え品を替え、教え続け、伝導し続けることだ。
 そしてもし、その好きなことを追求し、他人を説得する手段として、学歴のようなものが必要ならば、学校の勉強も半分上の空、いや徹底的に続ければ良い。

 では「好きなことは?」に答えられない子にはなんというか。

 それは子供の頃の自分自身だ。もし当時の自分に、言葉をかけることができるならば、何を言おうか。おそらく何を言っても「はいわかりました!」と返事をするばかりで、音声AIスピーカー並にスルー。聞き流されるだろう。

 引っかかる可能性があるとすれば、おそらくこういう言い方だろうか。

 「自分」というのは、幸か不幸か、幸いにもか不幸にもか、持って生まれたなにかではない。自分とは、たくさんの他人の言葉が集まったものである。 

「わたし」は他人たちの言葉である

 自分が、自分自身のことや、他の人間のことや、自分の生きる世界のことを「言葉にする」ときの素材として使っている言葉、これはすべて、それまで生きてきた中でどこかの誰かから借りたものである。日々周囲から押し寄せる誰かの言葉。それが「私」の頭の中に引っかかり、「自分」を、自分にとっての他人を、自分にとっての世界を、作る材料になる。

 誰から、どういう言葉を受け継いで、自分の手持ちの乏しい言葉につないでいくことができるか。それによって自分が認識できる「人生」なるものの光景が変わる。

 その材料の言葉は完成した商品ではない。誰が使っても同じ性能を発揮する規格化された製品でもない。同じ字面の言葉でも時と場合、相手によってその意味はコロコロと変わってしまい定まるところがない。
 私達の言葉は、遠い祖先たちが語った声、まだ文字もない時代から語られた声たちが、繋がり合い、捩れ、全く原型を留めないまでにその形を変えつづけるプロセスの、たまたま現在の一瞬の姿である。

 どこかから言葉を受け継ぎ、その言葉を発することで次の誰かにわたすこと。こうしてつながっていく言葉と言葉は、錯綜して、いたるところに解しようもなく固まった毛玉がある失敗作のマフラーのようなものだ。しかもその失敗作は作られ続けているという惨状である。

 この惨状を更に悪化させることに参加し、新たな結び目を加えていってしまうことこそが、言葉の織り手としての「自分」という存在に成長していくことの正体なのだ。

 好きでも嫌いでもない場所。そこで飛び交う言葉が、自分の手持ちの言葉にまったくつながって来ない場所。そうした場所に居続けても、近未来の「自分」というものを作る材料となる言葉を集められない。

 もしそういう状況にあるのなら、これから、いまから、とにかく言葉を求めるよう強く促したい。言葉を求める。求めるべき言葉とは今現在の自分の手持ちの言葉をうまい具合に言い換えてくれる言葉である。それがどの言葉、どの言葉であるか、それは人によってバラバラである。「全員」が読むべき、決まりきった正解が書いてあるような本は残念ながら、ない。

 誰かのありがたい言葉も、本も、大概ハズレが多い。どの言葉を覚えればよいかなんて定まったコースもなく、敷かれたレールもない。暗中模索、「いまの自分」の手持ちの言葉をうまい具合に言い換えてくれる、新しい言葉を探し続けるのである。

 これまでたくさんの本で読んだ無数の言葉、そのほとんどはどこかに滑り落ちていってしまった。しかしその中のいくつかが、かろうじて自分の言葉がずれたところに引っかかり、記憶に残った。それが今の「わたし」の意識を支えている。

 それは輝かしいゴールに向かう道でもなんでもない。人類の言語という失敗作のマフラーのようなものに、更に余計な毛玉をひとつ付け加えることである。

 しかし、それで良いのである。

 好きなことと嫌いなことをはっきりと分けられる人は、「自分はこういう人間で、あれとこれが好きで、最初にそれを知ったきっかけは・・・」と整然と語れることが多い。その人は、自分が受け継ぐべき言葉を決めている。

 一方で、受け継ぐべき言葉を「決めていない」ことの軽やかさもある。毛玉が増殖に増殖を重ね、これはもう決して二度と解きほぐすことはできないない、という美しい惨状に、半分上の空で人類史そのものを感じたり。

 いずれにせよ、世界は、そしてあなた自身も、いまのあなたが持っている限りの言葉で表現し尽くせるほど整然と完成し尽くしたものではない。

 8月31日の夜。

 明日から始まる日常も、そこに存在する自分も、他人も、それらすべてが奇妙な言葉の織物の、小さな毛玉のひとつひとつだということ。それはいまそこに生きる「わたし」にとっては確かに「すべて」である。しかしその「すべて」は、これからも増殖し続ける大失敗作の中の、ほとんど目に見えない毛玉や糸くずだったりする。そしてその小さな縺れを引き起こすことが、ひとりの個としての生命がつかの間生きるということの「意味」である。

おしまい 

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