「おうちかえる」な2才と縄文展を観て考える
縄文展を見てきた。
いや、見てきたというより、通り抜けてきたと言うべきか。
薄暗い照明の空間と、神妙な顔で沈黙したりヒソヒソ小声を交わし合うたくさんの大人たち。別件のついでに連れ立っていった二歳の長男が、その雰囲気に違和感を覚え「こわい。おうち帰る」と、早々に離脱を宣言。
それでも抱きかかえて会場を一周りし、一通りを遠目に眺めることができた。イノシシの形をした土偶、歌っているような表情の面付土器といったあたりは「かえる」と言いながら子供もおもしろそうに観ていた。
担いでいく、意味を
まだ暑い日々。縄文展の帰り道、鶯谷で電車に乗るまで抱っこしてほしいという子供を抱えながら、寛永寺の墓地の横を歩く。
ふと、自動車もリヤカーもない縄文時代、あの重たそうな土器を運んだ人たちは何を考えながら、一歩一歩を踏み出したのだろう、と考えた。ものによっては死者の再生を願う儀礼で使われたと考えられる土器もある。そんな大切なもの、ありありと「魂」が宿っているようなものを、大した運搬手段もない中、運ぶのである。
子供を抱きかかえて歩きながら、縄文時代の人々に思いを馳せる。
縄文土器があれほど複雑な形に展開した背景のひとつが、定住生活であるという。
縄文時代に至る前、旧石器時代は食料を求めての移動が生活の根幹であった。ところが気候が次第に暖かくなり、大型の狩猟対象動物が居なくなり、多様な可食植物が茂り始める。そうした環境にあって、世代を超えて同じ場所、同じ地域に暮らし続けることができるようになった。
そうして子供たちへ、さらにその子供たちへ、祖先から伝えられた部族を包む生活の場所に「秘められた大切な意味」を伝えていくことができるようになった。
複雑な形状で、文様、人の器官や動物たちが描かれた土器は、そうした部族を包み込む環境の「意味」を部族の仲間で確認しあい、その意味を保存すること、つまり、次代の子供たちに伝えていくために作られたと考えられている。
目に見える世界の、目に見えない秘められた意味を、声にし、身振りにし、音にし、言葉にし、部族のメンバーで共有すること。そうしたことは定住以前の旧石器時代から行われていたと考えられている。旧石器時代の狩猟採集民といっても、毎日露頭に迷い、あてもなくさまよい歩いていたわけではないらしい。彼らは広大なエリアの環境、そこで採れる動物や植物のこと、水場のこと、加工しやすく丈夫な石のことを知り尽くしており、必要に応じてそうした場所を巡回していたようだ。貴重な石材を求めて、遠くの海にまで船で漕ぎ出すことさえあったという。
そうして時期を定めて、普段はそれぞれ独自に動き回っている人々が、共通の記憶で結ばれた場所に集まってくる。そこで言葉を交換しあい、子供から大人へ移行するひとたちに世界の秘密を語る言葉を受け継ぐ。
原初の定住集落には、そうした移動性の高い狩猟採集民の集合場所からはじまったものもある。
定住し、持ち歩くことを前提としない、「うちにおいておけばよい」財物を保有できるようになったことで、縄文土器のような表現が生まれたのである。そこにはそれまでに人々が代々受け継いできた「意味」の世界が、物質の形として残されることになった。土器も土偶も、そういう意味ではメディアである。
現在の私たちは基本的に定住しており、また旅をしてもホテルや安宿、防水性の高いテントに泊まったりすることが多い。原野や山林で雨を除けながら焚き火を囲んで夜を明かす。それも毎晩毎晩、一生そうする、という状況で研ぎ澄まされるであろう感覚のあり方を、なかなか想像しにくい。自然に一体化する、あるいは周囲の自然環境に飲み込まれ、半分「食べられて」いるような感覚だろうか。
土器であるが、さっきまでそのあたりを歩いていたり、そのあたりに生えていた、動物や植物が、いま土器の中で煮込まれて溶けて、ひとつになっていく。そしてそれを食べて、命をつなぐ部族の人間たち。あるいは人間である自分たちもまた、その周囲の環境という大きな「土器」の中で煮込まれているなにかなのかもしれないという、そういう象徴表現を思いつく気の利いた縄文人の方も居たかもしれない。そうだ、世界は煮込み用の土器だったのだ!と。
おうちかえる
縄文展でならんでいる土器たちや土偶たち。
よく数千年の時を超えて、この場にたどり着いたものだと、つくづく感心する。最初にこの土器や土偶を焼成して、冷まして、「できた!」と喜んだ人たち。その作者たちも、まさか自分の「作品」がこういう具合にライティングされて空調の効いた部屋に置かれることになるとは思っていなかったろう。ことによっては「それは本来埋めるべきもので、人目に晒すものではない!!」と怒られてしまう代物も含まれているかもしれない。
いや、それをいうなら当の土器たち、土偶たちの方こそが、この状況に唖然と言葉を失っているのかもしれない。
「おうちかえる」
土偶の目をまじまじと眺めていると、そんな声が聞こえてくる。
一瞬、土偶の方がそういったのかと思ってしまった。
意味の構造
土器も土偶も、最初にこれをつくり、生活や儀礼の場で使った人々が、どういう意味をこれに込めたのか、もうほとんどわからない。
意味というのは、簡単に言えば、いや、難しく言えば、なにかとなにかの対立関係が複数検出されるところで、その対立関係同士を重ね合わせることである。Xとは、Aではなく、Bである。Cではなく、Dである。といった具合である。
ひとはあらゆる物事を「それ自体」として認識するのではない。
あらゆる物事は「それと違うもの」との「ちがい」としてだけ認識される。例えば、冬の寒い日。蛇口をひねって流れ出した水道水に、かじかんだ手で触れる。一瞬、温かいと感じることはないだろうか。人は「差分」だけを感じ取りながらも、それをそのものの正体だと「誤解」しながら、いつもと同じ安住できる世界を自分の中に見つけ続けている。
土器の表面を這う蛇。
この土器が生まれたとき、この蛇は、蛇ではない「何」と対立していたのか。
そしてこの蛇とそれではないものとの対立は、一体他の何と何の対立と重ね合わされていたのか。
その「最初の正しい」コードは失われてしまった。
とはいえそれは不幸なことではない。
生まれでたときの相方を失って、単立する蛇は、いわゆる「浮遊するシニフィアン」となる。それはいろいろな人のところで、いろいろなシニフィエを引っ張ってきては、即席の対立関係を「ブリコラージュ」したかと思えば、不意に消えていく。
数千年の時を越えて現代にその姿を現したこの土器たち、土偶たち、そこに描かれた精霊たち。
それは現代に生き残った造り手の遠い子孫たちの間をおもしろおかしく飛び回っては、また日常の背後に隠れてしまう。
作り手の次代の意味のコードから開放されて、意味生成のさざなみの中へと帰ってきた象徴たち。
意識に登らない日常の背後こそ、人が作り出した記号の痕跡としてのこの土器たちが、永遠に息づいている場所なのかもしれない。そこはコードが煮込まれてドロドロに溶け、そして誰かの「口に入り、言葉として出てくる」ときに、つかの間、ひとつの新しいコードを仮設してみる。もちろんそれもまたすぐに煮込まれてしまうのだが。
そういう意味ではこの土器たち、その精霊たちは、いつでも好きなときにふらりと姿と現しては、「おうちにかえる」ことができる。ただし、誰かに抱きかかえられながら。
おしまい
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