鴨に愛された子どもになる
長男を自転車で保育園に送る。
自転車登園ルートの途中に大きな池がある。ニュータウン開発される前から溜池だったところだそうで、いまは上流の谷戸田と合わせて広大な公園として管理されている。
家から保育園まではそこそこ遠い。しかし、遠いがゆえに、いくつもの登園ルートを選べる楽しみもある。
最短だけれども、延々と日陰で、上り坂が続く道。
遠回りだけれども、日当たりはよく平坦、しかし突風に吹かれやすい道
いまだに柿の実を、乾燥しつつある実の名残をくっつけたままの柿の木の横を通る道もある。
そしてこの池から流れ出す小さな川沿いをさかのぼる道もある。
今日はどの道にする?
と尋ねると、あまり余計なことはしゃべらない長男も、「柿」「池」などと答えてくれる。
しばらく前まで、最も選ばれる確率の高い選択肢は「柿」だった。
秋にたわわに実った柿が、ほとんど収穫されないままそのまま残されている、その柿の木の横を通る道。
秋を経て冬になり、クリスマスを過ぎ、年を越し。木についたままの実は明らかに干し柿になりつつあり、また少しづつ数が減っていくようにみえる。
野鳥が食べているのかもしれないし、誰か採っている人がいるのかもしれないが、いずれの現場にもいきあったことはないので良くわからない。ただ柿の木は、いつ来るともわからないお客のために、淡々とお店を守っているようにもみえる。
最近、ルートの選択肢に「鴨」が加わった。
真冬の朝、例の池は結氷している。鬱蒼とした森に囲まれた池の水面は、その多くが日陰のままで、まだ今日の直射日光には浴していない。
その池には、鴨たちが渡ってきて、滞在を楽しんでいるのである。この鴨を見て登園したい、という長男。
登園の時間帯はまだ寒く、また深く切れ込んだ谷戸は日陰がちでもあり、だいたい鴨たちは寝ている。水面に浮かんだまま寝ているものもいれば、岸にあがって寝ているものもいる。天然のダウン・ジャケットを羽織っているとはいえ、寒そうである。とはいえ彼らの故郷であるシベリアに比べれば、氷点下1℃くらいではまだまだ十分暖かいということなのかもしれない。
いずれにせよ、見るからに、あまり動きたくない、動かないようにしている、という様子である。
その鴨たちがどうしたことか、今日に限って動いたのである。
自転車に乗ったまま、池の畔から鴨たちを眺める。
案外遠く、池の真ん中のあたりに、二〇羽ほどがじっとしている。
まだ寝ているね
といって、いつものように出発しようとしたとき、鴨が一斉に、こちらに向かって泳ぎ始めたのである。
合わせて二〇羽ほど、とてもゆっくりではあるが泳ぎはじめた。少しづつ、しかしまっすぐに、こちらにむかってくる。
鴨がたくさん、自分の方に泳いでくる。
長男にとってはとても印象深い、はじめての体験だったようである。
鴨はいつも見ているので、珍しいものではない。しかしそれが、自分のほうに向かってくる。それも一羽二羽ではなく、たくさんである。
満足したような、高揚したような、成長するに連れて少しづつ見る機会が減っていった新奇の経験への驚きの表情。目を輝かせて鴨の方を見ていた。
ちなみにこの写真は、いうまでもなくペンギンである。
鴨が好きな長男は、ペンギンが泳ぐ姿をみては「鴨に似てる」と喜んでいる。
希少性に、高い価値を見出すよう訓練された資本主義のエージェントとしての大人消費者からすれば、貴重なペンギンを、ありふれた(まるで複製品みたいな)鴨に似ているという点で評価するとは、まるでA5ランクの牛肉を噛みながら「ああ、某牛丼チェーン並の柔らかさだわ」と喜んでいるような事態である。
しかし良いのである。
希少品と大量複製品の区別を、価値の有無の区別と、べったり重ねてしまうという簡単なことは、やろうと思えばいつでもできる。
大人の理屈のついでにいえば、おそらく鴨たちは、食事を当てにしていたのだろう。ここは「餌やり禁止」の池だし、餌をやっている人も見たことがないが、鴨はいろいろな場所を渡り歩いて人間にも慣れているはずであり、餌をもらった経験もあるだろう。
池の畔にじっとしている人間があれば、パンの袋でも取り出すだろうと大いに期待するだろう。いや、私が鴨なら間違いなく期待する。
しかし、長男にとっては、餌目当てかどうかは問題でなない。
「鴨に会いたい」という自分の気持ちと、鴨がたくさんこちらに向かってくるという光景。この二つがからまって、まるで自分の思いが鴨に「伝わった」気がしたようである。
時計を眺めて時間を思い出し、立ち去るとき、「カモさんまたね、待っててね」と、しばしのお別れの挨拶をしている。
鴨という、それこそ大人の理屈でいえばコトバを解するはずもない動物に、コトバでかたりかけるという意志あるいは生命力。これこそ人間的で、コトバが生まれ出る瞬間ではないか。
伝わる、というのはおそらく、こういうことなのかもしれない。
鴨は鴨の都合で動いており、子供は子供の都合で考えたり感じたりしている。それぞれ勝手に、自分の都合で、自分にとっての自然を生きており、自分なりのやり方で身振りを繰り出し、声を繰り出す。
その二つの自然が、ある時間、ある場所で、重なり合ったとき、その二つの世界の間で何かが共振したように感じることができる。それは一方的なカンチガイかもしれないし、「実際には何も伝わっていない」のかもしれない。しかし当事者にしてみると、「伝わったような気がする」。
その時、鴨はこの子にとっての「自分と関係のある、なにか特別な他者」に「なる」。
同時にこのとき、この子もまた、いわば「鴨に愛された子ども」に「なる」。鴨との関係にある限りで、「『鴨にとっての他者』としての自己」へと生成する。それはもうさっきまでの、柿を見ようか、池を見ようかと思案していた誰かではない。
このなんとも繊細で小さな「他者の他者になる経験」。
そんな瞬間を、いまこの子は生きたのだろう、と、また別の他者であり、観察者を気取っているこの親が、勝手に一方的に想像するのである。
そう、「私」もまた、ここで、ある一つのなにか、細かすぎて名付けようもないものに「なった」のである。
この瞬間を媒介してくれた、鴨に感謝である。
ちなみに、鴨はさぞ失望したであろう。パンくずひとつもらえなかったのだから。眺めるだけ眺めて走り去る、無礼な人間も居たものだと、憤慨しているかもしれない。
と、いうものまた、「私」が、この瞬間「鴨になって(私にとっての他者としての鴨になって)」鴨の「視点」に勝手に立って考えてみたことである。
おわり