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予備校三国志 第2話 「絶対王者、駿台」
前回 第1話「代ゼミ創生」https://note.com/waxwax/n/n91571be100c9
新生児の代ゼミがすくすくと成長しはじめたころ、予備校界の頂点に君臨していたのが駿台高等予備校である。
生徒数およそ3,000人を有する駿台は、1957(昭和32)年の大学入試において東大624人、一橋大学103人、早慶合わせて761人の合格者を生み出す無双状態にあった。当時の東大の定員は約2,100人なので、東大入学者の3割近くが駿台出身者だったことになる。予備校といえど駿台には入学試験が存在し、人気の高い「試験クラスの午前部」であれば約6倍もの狭き門を突破せねばならなかった。東大に落ちて悔し涙を流した学生が、駿台に合格して嬉し涙を流す光景さえあった。
駿台の創業者は山﨑寿春。1878(明治11)年に鳥取県で生まれた彼は当代きっての国際人であり、その人生は予備校産業の発展とともにある。
山﨑は東京外国語専門学校(現:東京外国語大学)で英文学を学んだ後、私立中学の教師などを経験。その後渡米し、アーマスト大学、ハーバード大学、エール大学院で学び、さらにイギリス、ドイツ、オランダなどの教育事情を視察してまわった。1910年に帰国すると、教育分野では貴重な海外有名大学の学位取得者として明治大学に迎えられる。
当時の日本は、1872年の学制に始まる学校制度の整備があらかた完了した時期であった。1897年に京都帝国大学が創立されると同時に、東京大学は東京帝国大学に改称。続いて1907年に東北帝国大学、1911年に九州帝国大学が創設された。同時期に帝国大学進学者の予備教育機関にあたる高等学校の設立も進み、1908年に名古屋で作られた第八高等学校をもって名門校の代名詞「ナンバースクール」が出揃う。ちなみに当時、山﨑の勤務する明治大学のほか慶応義塾大学や早稲田大学などの私立校が存在していたが、制度上は専門学校に位置づけられ、正規の大学と認められていたのは4つの帝国大学のみであった。
時まさに立身出世の時代である。学校制度の確立とともに、受験戦争は激化した。
全国の優秀な若者が国を支えるエリートを目指して上位校への進学に挑んだ。高等学校から帝国大学へは原則全員が進学できたため、最大の関門は高等学校入試であった。
1895年時点で高等学校入試の入学率は約66%。受験に挑むのは各地の秀才に限られており間違いなく難関ではあるものの、受験生の3人に2人が高等学校へ進学することができた。それが2年後の1897年には入学率46%まで低下する。1902年は約36%、1907年には約31%。1908年は約20%まで下落し、最も人気の高い第一高等学校に至っては志願者数2,614人に対して入学者数は354人。7人に6人が涙を飲む結果となった。彼らが一度で受験を諦めるわけはなく、浪人生が大量に発生する。受験生の間にはなにがなんでも一高に入りたいと願う〝一高至上主義〟とでも呼ぶべき風潮があり、他の高等学校なら受かる実力があるにもかかわらず、一高受験を繰り返す学生も少なくなかった。当時の高校長会議では「第一高等学校とか、第二、第三、第七などというネーミングがよくない。序列意識をもたらす名称だ」と校名変更を提案する意見も出ていた。
なにはともあれ、浪人生がいれば予備校ができるのが世の定めである。教育社会学者の竹内洋によれば「明治四〇(1907)年前後というのは予備校設立ラッシュの時代」であり、その頃すでに「東京の神田は予備校の街であり、受験生の巣窟」であったという。
当時の予備校の主な経営母体は中央大学や日本大学、東洋大学などの私立専門学校だった。私立専門学校は経営が苦しく、彼らは予備校の授業料を学校運営の資金源としたのである。
山﨑が就職した明治大学も1907年に明治高等予備校を設立しており、山﨑は大学で教鞭をとるかたわら浪人生向けの授業も受け持つことになる。この経験が山﨑に受験教育への関心を芽生えさせ、1916(大正5)年に受験誌を出版する「受験英語社」を立ち上げるに至った。
受験英語社は山﨑の自宅を本拠とする、個人事業の延長のようなものだった。編集のほか、原稿執筆依頼、談話取材などのほとんどを山﨑が担当し、運転資金は彼の自腹だった。アルバイトを雇っても手が足りず、中学にあがったばかりの長男・章も校閲や発送の作業に駆り出されたという。
山﨑は印刷所の確保や誤植への苦情に頭を悩ませながらも、誌面を通じた受験生との交流に勤しんだ。読書欄に寄せられる不合格の無念を綴った文章に熱心な励ましを送り、内容の充実を求める声には真摯な回答を寄せた。創刊3年目からは東京高等受験講習会を開き、希望者への直接指導も行っている。
受験英語社の創業は、第一次世界大戦の真っただ中にあたる。戦地となったヨーロッパ諸国の生産力が落ち込んだために日本の工業品への海外需要が高まり、海運業や造船業が大きく発展した。歴史の教科書にも載っている、成金紳士がお札を燃やして「どうだ明るくなったろう」と女中に差し出す風刺画はこの時代を描いたものである。大戦前後で日本の工業生産額は約5倍に増加した。その急速な成長の中で、各企業は大卒の人材を強く求めるようになった。政府は財界の要望に応えて1918年に札幌農学校を改組し北海道帝国大学を創設。1919年施行の大学令により私立大学の認可を開始し、翌年2月の早稲田大学を皮切りに山﨑のいる明治大学も正式な大学と認められた。
新潟、松本、松山、水戸など全国各地に高等学校が新設され、受験産業が果たす役割は大きくなるばかりであったが、1923年の関東大震災によって受験英語は休刊に追い込まれる。
それでも山﨑の教育熱は冷めず、震災の翌年に誕生した第一外国語学校で受験生向けの講習会を続けた。1925年には自身初の公開模擬試験を実施、夏に神奈川県内の小学校校舎を借りて二週間にわたる受験合宿も行った。
そして1927年、山﨑は48歳にして「駿台高等豫備学校」を設立する。とはいえ校舎を自前で用意することはできず、通信教育などを行う大日本国民中学会のビル内にある大教室を間借りする形で第一歩を踏み出すことになった。「駿台」は創立の地、神田駿河台に由来すると同時に、「はなはだすぐれた馬、すぐれた人」という意味を持つ「駿」に学生の理想像を重ねる思いもあった。
志こそ高かったが、その船出は逆風にさらされる。
アメリカの株価暴落に始まる世界恐慌に日本も巻き込まれ、企業の倒産が相次ぐ。駿台もその影響を免れず、山﨑は模擬試験の採点料の支払いにすら難儀する事態に陥った。事務所には不渡手形がどんどん積み上がり、破産が目の前に迫った。旺文社の創業者で東京外国語学校の後輩にあたる赤尾好夫は、銀行で融資を乞う山﨑のワイシャツがひどく汚れているのを見て事業の苦しさを察したという。
山﨑曰く、周囲からは「大学の先生をやっておれば楽に食えるのに、どうして予備校などやっているのか」と諭されたそうだが、山﨑は予備校経営こそ自らの志した道と信じて事業を続けた。海外留学経験を持つエリートでありながら和やかで親しみやすい山﨑の人柄は、ハッタリと札束で苦境を切り抜ける髙宮とは対照的だった。戦前から戦後にかけて駿台の教壇に立った国学院大学教授の小柴値一の回想を引く。
校長はハッタリのきらいな人だった。講師は大家ぞろいで、当時まだ二〇歳代だった小柴にはそばにも寄れぬような大物ばかりだったが、和気あいあいとして、とてもなごやかだったのは校長の人柄によるものだったろう。
小柴が「講師は大家ぞろい」と述べる通り、駿台の講師には一高や早稲田高等学院、明治大学の教授など一流どころが名を連ねていた。そこには山﨑の人柄と長年の講習会で培った人脈が反映されていた。スタートこそ苦しんだ駿台だったが、名講師たちの丁寧な指導が評判を呼び、生徒の数は着々と増えていく。長引く不況も、文系学部の就職率が約3割に落ち込むほどの就職難になると、むしろ高学歴志向の高まりを生んで予備校経営への追い風に変わった。
1938(昭和13)年、教室を間借りしていた日本国民中学会が倒産したのを機に、山﨑は校舎建設に踏み切る。明治大学女子部の校舎を借りて授業を続け、翌年神田駿河台2丁目に約150坪の土地を取得。国家総動員法が公布され物資が厳しく統制される中、なんとか建築資材を集めて1940年3月に新校舎を完成させる。
校舎はモルタル塗りの木造2階建てで、駿台の校史では「いまの駿台の壮大な校舎群からみると、想像もできないほどの貧弱な校舎」と評されているのだが、山﨑にとっては念願の自前の校舎にほかならなかった。山﨑は「受験教育一筋に生きることを決意」し、約30年務めた明治大学を退職する。
同じ年に名古屋帝国大学が開学し、すでに創設されていた朝鮮の京城帝国大学、台湾の台北帝国大学、大阪帝国大学をあわせた九帝大の時代が始まった。私立大学の数も増え、大学間の格差がはっきりと意識されるようになった。否応なしに受験熱は高まり、さらに多くの学生が駿台の門を叩いた。
新校舎完成の翌年、真珠湾攻撃をもって日本は太平洋戦争へ突入する。当初は快進撃を繰り広げた日本軍だったが、次第に連合国に押し返され戦況は悪化の一途をたどる。1943年に学生の徴兵猶予が停止されて学徒出陣が開始、多くの予備校生が戦地へと派兵された。試験科目から英語は消えたが毎年の入試は実施されており、駿台の学生たちは勤労奉仕に駆り出されながらも受験勉強を続けた。授業のさなかに空襲警報が鳴り響き、生徒が廊下にひれ伏してやりすごすこともあった。戦時中最後の高等学校入試は1944年12月から翌年2月にかけて行われ、31,471人が受験した。その数は前年の約73,000人から半減しており、戦争末期の日本の苦境を感じさせる。3月の「決戦教育措置要綱」をもって、国民学校初等科を除くすべての学校の授業が停止。駿台も休業せざるをえず、そのまま終戦の日を迎えた。
終戦直前の約9ヶ月間に東京は100回以上の空襲を受けたが、駿台の校舎は奇跡的に焼失を免れていた。戦地から戻ってきた若者たちは教育に飢えており、駿台はその声に応えて終戦から一年足らずの1946年4月に授業を再開させた。
その短い間に、日本の教育は大改革を迎えていた。
終戦の翌月、文部省は「新日本建設の教育方針」を発表するも、GHQはそこに軍国主義が残っていると反発。文部省の方針を上書きするかたちで「日本教育制度に対する管理政策」を打ち出した。教育関係者の調査が行われ、極端な国家主義を持つなどの問題があるとみなされた教師5,000人以上が追放された。軍国主義と繋がりの強い修身、地理、歴史の授業は停止、戦時中は盛んに行われていた柔道や剣道も禁止された。学校では子どもたちが教師の指示に従い、教科書の前時代的な記述を黒く塗りつぶしていた。
1946年2月、文部省は大学入学者選抜要項を通達して女性に帝国大学の門戸を開く。それまで、1913年に東北帝国大学に入学した3人の女性を嚆矢として他の帝国大学にも特例の範囲で女子学生がいたが、東京帝国大学と京都帝国大学には1人も女子学生がいなかった。ちなみに各大学の名前から「帝国」の二文字が消えるのは翌年のことである。
3月に来日したアメリカ教育使節団は同月末、戦後教育改革の青写真といわれる「第一次米国教育使節団報告書」を提出する。その報告書で小学校6年、中学校3年の義務教育の先に新制高等学校3年を置く「六・三・三制」が提案され、戦後の教育制度の基本方針となった。
高等教育においては従来の大学、旧制高校、専門学校、師範学校などの各種学校が「大学」に一本化された。1948年には文部省が各県に一つの国立大学を置く原則を決定し、旧制の専門学校や師範学校を改組したり新たに大学を設立したりして高等教育機関を全国に整備した。
戦後の混乱を脱して国民生活が建て直されてくると、大学を目指す学生が急増する。新生国立大学は彼らの志望先になると期待されたが、実際にはそうならなかった。戦前からの伝統を持つ旧帝国大学や有名私立大学と、実績のない新生大学との間には歴然たる格差があった。受験生たちは大学間の序列を強く意識し、有名校の入試は戦前以上の激戦となった。浪人の数は増え、それに比例して予備校の数も増えていく。
各予備校は戦争により壊滅的な被害を受けており、教育学者の関口義の調査によれば1947年時点で都内の予備校はわずか6校しかなかったという。それが1954年には30校まで増加した。終戦後は予備校業界でもベビーブームが起きていたわけだ。大学同様、予備校の乱立は戦前からの実績を持つ駿台の格を押し上げた。地方都市でも数多くの予備校が誕生していたが、駿台のもとには東大をはじめとする名門大学を目指す学生が全国から集まるようになった。山﨑が掲げた教育理念は「愛情教育」。日本の再興や学問の探究を求めて駿台にやってきた若者たちを山﨑は愛情を持って教育した。
駿台の校史によると、1950年ごろにはすでに午前部の入試倍率は3倍近くに達し、受験生の母親たちの間では「お宅のお子さん、駿台に入られたそうでおめでとうございます」といった挨拶が交わされていたという。1952年に駿台は「駿河台学園」として学校法人の認可を受けるのだが、その頃には倍率は10倍を超えていた。
学校法人認可と同時に、74歳になった山﨑のサポート役として三男・春之が学園の理事に就任する。この春之こそ、駿台のさらなる躍進の立役者である。
春之は明治大学を卒業後、国営の繊維貿易公団に就職。民間の繊維会社で働いた経験もあった。教育一筋の父と違い、春之にはスケールの大きいビジネスを扱う経営手腕が備わっていた。春之はまず、駿台へ殺到する入学希望者の新たな受け皿を作ることを目指した。
自ら都内の土地探しに奔走し、四ツ谷駅近くに約170坪の敷地を確保。1954年のはじめより新校舎建設に着手する。約350万円の建設費はすべて銀行からの借り入れでまかなわれ、春之に「清水の舞台から飛び降りるにも似た悲壮な気持ち」を抱かせる大きな挑戦となった。
9月に校舎が完成し、駿台四谷校が開校する。新校舎は鉄筋コンクリート壁体ブロック造りの2階建てで、生徒は本校の選抜試験に落ちた上位層から約600名を入学させた。開校からしばらくの間、春之は夜間部の授業が終わった後に全職員を集めた反省会を毎日開き、お茶の水校に名前を変えた本校と遜色のない教育の実現を図った。
春之の努力は実る。
翌春の大学入試において、四谷校は86名の東大合格者を出した。東大以外にも東京工業大学(現:東京科学大学)や一橋大学などの国公立大学、有名私立大学に多くの学生を送り込み、開校から約半年とは思えない堂々たる結果を残した。勢いを得た春之は一年後に突貫工事で3階を増築し、1,000人の学生を受け入れる体制を整えた。1959年の大学入試における東大合格者はお茶の水校、四谷校あわせて838人まで伸びた。
春之は四谷校が生む利益を本拠地駿河台に還元することを忘れなかった。明治大学のキャンパスに隣接する土地を取得し、巨大な新校舎の建築に乗り出す。設計は国鉄の建築課長だった春之の兄・兌が無償で引き受けた。
1960年に完成した新校舎は地上5階、地下1階の鉄筋コンクリートビルで、1階に事務室や講師室、2階から4階に大小7つの教室、5階には食堂兼用の学生ホールを設けた。各階のベランダにはベンチを置き、生徒たちがゆったりと過ごす空間を作った。
髙宮が代々木に立派なビルを建設してから3年、駿台も新たな時代にふさわしい予備校校舎を作り上げたのである。その姿はまるで、駿河台の丘に築かれた大国の城のようであった。