レアグルーヴの代名詞ノーマン・ジェイ。その濃密なDJ人生について大いに語ってもらった。
ノーマン・ジェイがいなければ“レアグルーヴ”という単語も、アシッド・ジャズも、ロンドンから発信されてきたクラブ・カルチャーも存在しなかっただろう。幼少期からDJに興味を抱き、70年代からニューヨークに通って、かの地のクラブ・カルチャーを体感した彼は、ヨーロッパ最大のストリート・フェスティバルであるノッティングヒル・カーニバルで伝説的なサウンドシステム、Good Timesを立ち上げた。
Rare Groove Master
Norman Jay
レアグルーヴを極めたDJ
80年代には海賊放送番組『The Original Rare Groove Show』で入手困難なブラック・ミュージックの公布活動をしながら、クラブ・プロモーターとしてニューヨークの最新のハウスDJやシンガーをイギリスに招聘し、90年代に入るとジャイルス・ピーターソンとレーベル、Talkin’ Loudを創設。パイオニア的な存在の彼は、2002年にエリザベス女王から直々にMBE勲章を授与された。DJとしては初の快挙である。
あなたの子供の頃について教えてください。
ロンドンのノッティングヒルに生まれた。両親はグレナダ(カリブ海の小アンティル諸島南部に位置するイギリス連邦加盟国)の出身だよ。とても音楽的な家庭で、兄弟はみんな楽器を演奏していた。子供の頃から私はレコード・プレイヤーに興味があったんだ。ヴァイナルをレコード・プレイヤーで再生して、スピーカーから出てくる音に魅了されていた。7歳か8歳のときにDJを始めたけど、60年代だったから、父親のターンテーブルで初期のレゲエ、スカ、Blue Beat、Motown、Stax、マイルス・デイヴィス、サミー・デイヴィスなどをプレイしていた。
私が初めてDJとして出演したイベントは、いとこの10歳の誕生日会だ(笑)。レコードをたくさん持っていたからDJを頼まれたんだ。父親の影響もあって、子供の頃から私は熱狂的なレコード・コレクターだった。アメリカのブラック・ミュージックのスタイルを全て追っていたね。
70年代から頻繁にニューヨークに通うようになったそうですが、それはあなたにどのような影響を及ぼしましたか?
当時ニューヨークに行ったことは、私に大きな影響を与えたよ。親戚がニューヨークに住んでいたから、夏になるとニューヨークに遊びに行くようになった。ブラック・ミュージックが大好きな私にとって、ニューヨークに行くことはメッカ巡礼のような体験だったね。レコード店がたくさんあったし、当時はイギリス・ポンドが強かったから、レコードを安く入手することもできた。ほぼ毎日レコード店に入り浸り、レコードをたくさん持って帰った。当時はシックやクラウン・ハイツ・アフェアも好きだったし、シカゴやデトロイトなどのディープ・ソウルも好きだったね。ウェスト・コースト・ジャズも好きだったし、できるだけたくさんの音楽を吸収しようとしていたんだ。
70年代のニューヨークでDJもしていたのでしょうか?
いや、DJはしていなかったが、叔父がイースト・フラットブッシュでフラミンゴというカリビアン・クラブを経営していて、自分のサウンドシステムも持っていたんだ。叔父はレゲエやカリビアン・ミュージックをプレイしていたけど、レコード・プールにも所属していて、Prelude、Salsoul、Columbiaとか、メジャー・レーベルのレコードをもらっていた。叔父は私に、そのレコードを全部くれたんだ。
80年代に入ると、私はパラダイス・ガラージ、トンネル、ワールド、パラディアムなど、ニューヨークの有名なクラブ全てに遊びに行ったよ。ニューヨークのクラブは大好きだったが、ロンドンとの文化的な違いがあった。ニューヨークのDJはロンドンのDJとは違って、優れたレコードならジャンルを気にせずプレイしていたから、とても視野が広がったね。
ニューヨークからロンドンに戻り、サウンドシステムのGood Timesを立ち上げたわけですね。
そう。ノッティングヒル・カーニバルでGood Times Sound Systemを始めたんだ。叔父がサウンドシステムを運営していたし、私はカリブ系でもあったから、昔からサウンドシステムをやりたいと思っていた。最初のサウンドシステムは兄貴が作ってくれたけど、リサイクル・パーツで組み上げたものだったね(笑)。
ノッティングヒル・カーニバルは子供の頃から通っていたが、55年という長い歴史をもっていて、毎回100万人以上がストリートに集まるんだ。もともとカリブ系のフェスティバルだったが、私の出現によってあの祭りの音楽的視野が広がったんだよ。昔はレゲエ、ソカ、カリプソがメインだったけど、私がそこでファンク、ソウル、ディスコ、ヒップホップ、ハウスを初めてプレイするようになった。
当時あなたがプレイしていたような音楽に抵抗感を示す人もいましたか?
そうだね、リスクはあったよ。当時の私はまだ若く、怖れを知らなかったからできたんだ(笑)。ニューヨークから持ち帰ったファンクやゲイ・ディスコのレコードをプレイして、最初は受け入れてもらえなかったけど、ノッティングヒル・カーニバルでプレイすることによって徐々に浸透していった。私がプレイしていたディスコやソウルのチューンが、数ヵ月後にメジャーなチャート・ヒットになったんだ。私は誰よりも早くそういうレコードをカーニバルでプレイし、ブレイクさせていった。徐々に私も有名になっていったね。
その後、ラジオ番組を始めました。
あれは80年代半ばのことだった。そこで『The Original Rare Groove Show』という番組をやっていたが、その番組から“レアグルーヴ”という言葉が生まれたんだ。
どうやってその言葉を思いついたのですか?
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