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希死念慮ではないけれど

 春(夏?)が終わって最近は蒸し暑くなってきたけど、みんなは元気?私はそこそこ元気な感じ。湿気っぽくて蒸し蒸ししていると、外に出たくなくなるとか夜中眠れなくなるとかしてやだよね。そして少し憂鬱になる。五月病の語源ってもしかしたら梅雨のせいで気が晴れない人が作った言葉なのかもね。

 昔、具体的に何があったとかは言いたくないけど、本気で死のうとしたことがある。こうして文章を書いている訳だから、結局は死なずじまいだった。その時から死について考えることようになった。それまでは「死ぬのはヤダな〜」とか「おばあちゃんが死んだら泣いちゃうかも」とか軽口を叩けるくらいには死というものは身近でありふれたものであると認識しつつも、どこか自分とは関係のない世界の出来事であると思っていた。それは誰かの死に直面した経験がないことや私が青くてそんな先のことまで考えていなかったからだと思う。

 本気で死のうとしていた時の私は、死を求めている感じ。死以外に自分の救いは無いと本気で思っていたし、それくらい追い詰められていた。希死念慮というよりも寧ろ自殺願望という方が近いのかもしれないが、確かにそこには死を願い求める私がいた。現在の私は、死について考えるために知識や体験を増やしていく過程で、世の中にはまだまだ楽しいことが溢れていることを知った。自分知っていることはこの世界のほんの少しに過ぎないということを知った。しかし、それは生きたいという気持ちに繋がったわけではなく、積極的な死を求めなくてもいいかなという気持ちになっただけである。言い換えると、いつ死んでもいいかなという気持ち。

 死について考え始める前の死といつ死んでもいいと考え始めてからの死はどちらも身近な死でありつつも、後者はより生活に密接であり似たようで違うものであるように思える。現実の、地続きの生活の先に待ち受ける着地点。まさにメメント・モリといったところだろう。死と自分は隣り合わせであるということを常に思考の片隅に置いておくことで、嫌なことがあっても、いずれ死んでしまうんだし気にしても仕方がないよなとネガティブの中でもポジティブな思考が発現するといったことや今死んだとして人生を悔やむことはないだろうかということを考え、やりたいことは取り敢えずやってみるということができるようになりつつある。よって、死を意識することは、場合によっては精神的にプラスに働くのではないだろうか。人生を俯瞰するための手段になり得るのではないだろうか。

 死を意識することによって、ネガティブな思考が生まれる危険性を孕んでいることは承知しているが、人生に置いて重要なテーマの1つであると思う。誰にでも等しくそれはやってくるわけだし、いずれは考えるタイミングが必ずくるから。ただし意識するということは積極的に求めよという訳ではない。

 死に対する捉え方は人それぞれだと思うけど、どういう捉え方にせよ人生には終わりが来るし、なるだけ燻っている時間は減らして満足し切った状態で終わりを迎えたいね。そのためにも死を忘れずに。希死念慮ではないけれど。以上。再見。

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