競技クイズの出題範囲を考える
BOOTHで公開しているクイズ論考について(https://note.com/wattson496/n/nf255e3d830a5)の中で、私は「競技性の高いクイズを作りたい」という目標について書きました。今回は、その延長線上で、クイズ大会の出題範囲について、競技性で突き詰めて考えるとどのようなものになるか、について私が考えていることを書きたいと思います。この問題は私の中ではまだはっきりとした結論を出せていない状況ですが、今までに考えが付いている内容だけでも、論点として面白い要素があると思うので、一通りまとめておこうと思います。
なお、最初に断っておきますが、ここに書いている内容はあくまで「競技性」という側面で突き詰めて考えた場合の話なので、そうでないクイズ大会の問題には全く当てはまりません(世の中には競技性に振り切っていない競技クイズの場はたくさんあります)。また、競技性を重視する立場でも、客観的には決めがたい部分が随所にあって、そういう箇所では私個人の好みに基づいた主張をしています。ある程度論理立てた書き方はしますが、客観的に「正しい」ものを書いたものではないので、この文章を錦の御旗のように扱って巷のクイズ大会や問題集に対して批判や中傷することは絶対にしないようにお願いします。
競技としてのクイズ
「競技クイズ」という言葉はよくあちこちで使われていますが、その指している内容は非常に曖昧なものです。私はこの言葉を「競技」と「クイズ」の2つに分解し、その関係性を以下のように捉えることとします:
「クイズ」は「『問い-答え』の形式を持つゲーム全般」を指すカテゴリである
「競技」は、競争的な遊びの中で、規則が設けられて秩序だって行われるものを指す
「競技クイズ」は、競争の形態で行われるクイズの中で、ある程度の競技性を持ったものを指す
ここでいう「競争」は、ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』の中で提唱した遊びの4類型のうちの「アゴン」に相当するもの、「競技」はその中で「ルドゥス」としての性格が強いものを指して使っていると考えてください。
クイズは「『問い-答え』の形式を持つゲーム全般」なので、必ずしも競争の形で行われるものとは限りません。2人の人がいて、一方が問題を出し、他方が答えるという形があれば成り立ちます。
競争的なクイズは、問いに答える解答者が複数人いて、「問いに答える」という営みの何かしらの属性を軸に競い合うようなものとなります。
「競争(アゴン)」と呼ばれるタイプの遊びは、複数の人が、ある能力を比較の軸と定めて、その能力が高いか低いかを比べ合う、という性質を持っています。駆けっこや競走では「速く走る能力」を比べますし、競泳では泳ぐ能力を比べます。
競争的なクイズで、比べる対象となる能力には、いくつかの候補が考えられます。例えば、いくつかの問いを出したときに、より多くの問いに答えられる能力。あるいは、問いの難易を比べて、より難しい問いに答えられる能力。また、問いから答えを導くまでの時間の早さを競うこともできるでしょう。
原始的な競争が競技となるとき、そこに付け加えられる競技規則は、その能力の比較をいかに公正なものとするか、という部分が重要となってきます。例えば競走の場合、選手が走る距離が違ったら速さの測定が正確でなくなるので、「100m走」などのように規格を定めます。スタートのタイミングが一致していなければ適切な比較とはならなくなるので、反応時間が0.100秒未満の場合はリコールとするような規則が設けられます。
では、同様にして競争的なクイズにおいて競技性を高めるには、どういうことを考えなければならないでしょうか。
この問題は色々な観点から論じることができますが、この記事では「出題の題材範囲」という部分に関することを扱っていきます。
競技クイズの出題範囲
競技クイズの大会では、特に「ジャンル限定」の断りがなければ、所謂「ノンジャンル」「オールジャンル」として出題範囲を考えることになります。これは、競技クイズで競われている能力の重要な一部分として「より幅広い分野の事柄を知っている」というものが想定されていることを裏付けていると言えるでしょう。
こうした出題の傾向は、しばしば「あらゆる物事が出題される」「出題範囲は森羅万象」などと言い表されますが、現実的には、本当にあらゆる事柄が出題されるわけではありません。
競技クイズを競争として成り立たせるためには、クイズの結果によって競技者の間に優劣が付けられる必要があります。クイズの場合、上述の通り優劣を付ける基準にはいくつかの要素があって、それらを複合したものが比較基準になります:
より多くの問題に正解できる人が優れている
より難しい問題に正解できる人が優れている
より広い分野の問題に正解できる人が優れている
より早く問題に正解できる人が優れている
これらの基準のどれが優位になるかは、対戦ルールによって異なります。「正解ごとにポイントが得られ、ポイントの高い人が勝つ」という形式なら、「より多くの問題に正解できる」という要素の優位性が高いです。このとき、難易によらず1問あたりで得られるポイントが同じ場合は、「より難しい問題に正解できる」という基準はほぼ考慮されない形になるでしょう。「より早く問題に正解できる」は、早押しの要素を含むクイズでは影響が大きいですが、ペーパークイズやボードクイズではシンキングタイムくらいでしか比較されないので影響が小さくなります。
ただし、いずれの場合にも、「正解できる」ことは大前提となります。競技者の誰もが正解できない問題では、優劣が付きません。なので、必然的に「マニアックすぎる題材は出題しない」という条件が付けられます。
この「マニアックすぎる題材は出題しない」のような難易度を規定する条件は、ジャンルの配分に影響を与えます。あるジャンル範囲について、その全体がマニアックすぎると判断された場合、ジャンルごと出題範囲から実質的に消え去ってしまうからです。なので、あるジャンルについて、それを細分化したもののうちこれによって消え去ってしまうものが多ければ、そのジャンルは出題比率が小さくなります。
「マニアックすぎる」の条件
「マニアックすぎる題材は出題しない」という基準は、競技者に優劣を付けることを目的としているので、最低ラインとしては「競技者のうち誰か1人でも正答可能」というところが満たされていれば十分となります。ただ、実際にはもう少し厳しく条件を付けることが多いと思います。
例えば、競技者がAさんとBさんの2人とします。出題対象として、Aさんのパーソナルな情報を題材とした場合、Aさんは当然その問題には答えられるでしょう。なので、これは「競技者のうち誰か1人でも正答可能」という条件を満たしています。
ですが、Aさんのパーソナルな情報は当然Bさんには分からないので、Bさんにとっては面白みのない勝負になります。カイヨワは『遊びと人間』の中で遊びの定義として6つの条件を与えましたが、その中に「未確定の活動」、つまりゲーム展開や結果が分からない、という条件を提示しています。Aさんのパーソナルな情報が題材だと、Aさんは分かりBさんは分からないことが予め確定しているので、遊びとして成り立ちません。
それでは、複数の問題を出題して、Aさんのパーソナル情報とBさんのパーソナル情報を両方同じ割合で出すようにすればいいじゃないか、という考え方があります。これは、ゲーム全体として「未確定の活動」の条件を満たすには十分と言えるでしょう。ですが、互いのパーソナル情報だけしか出題しない形だと、出題順の運だけでほぼ勝負が決することになります。
運だけで勝敗が決するのは、それだけで必ずしもゲームが成り立たなくなるものではありません。例えば百人一首の「坊主めくり」は、ルールにもよりますが、ほぼ100%純粋な運ゲーです。ですが、これは普通にゲームとして実際に遊ばれています。また、そこまでいかなくても運要素が強めのゲームは世の中にはたくさんあります。ですが、所謂「運ゲー」はあまりに運要素が強すぎると否定的に扱われる傾向があることは否めません。
運要素と競技者の実力とのバランスは、かなり好き好みが分かれるところです。競技クイズでは、多くの場合完全に運要素のみにするのは良しとせず、競技者の実力による部分をある程度持たせるようにしている例が多いように見受けられます。
私個人としては、運要素が多いものよりも実力だけで決まる二人零和有限確定完全情報ゲームのようなものの方が好きです。なので、競技クイズでも運要素を極力廃したものを好みます。特に、競技クイズの運要素として大きな影響を持つ「出題順」は、出題者の差配で勝敗を恣意的にコントロールできてしまう、という要素を含むので、機械的に出題順を決めるアルゴリズム(https://wattson496.booth.pm/items/3695155)のようなものを一大研究テーマとしています。
実力重視の競技クイズの出題範囲
出題対象の範囲について、運要素を廃して実力を重視するなら、全ての問題が「実力」で到達しうるものであるのが理想になると思います。なので、私は競技クイズの出題基準として
全ての競技者が、現実的なコストで事前に努力をすることで、正答にたどり着ける
というものを掲げるようにしています。
この基準は、色々な点で曖昧性を持つものなので、要素に分けて詳しく見ていきます。
「全ての競技者が」
まずは「全ての競技者が」についてです。この「全て」の対象には、いくつかのレベルが考えられます。少なくとも、次の2つの基準がそれぞれ考えられます:
実際に大会にエントリーして、その競技の場に立った人
大会のレギュレーション設定で、その競技の場に立ちうる人
試合を競技として成り立たせることに特化するなら、前者の基準の方が合理的です。ですが、私はどちらかというと後者の基準の方を好んでいます。これは、前者の基準で問題選定をするのが現実的には難しい、というのが理由です。
前者の基準によって問題を定めるためには、実際にエントリーした人について事細かに調べて、その人がどういう知識を持っているかを把握する必要があります。規模が大きな大会になればなるほど、これは現実的に実行するのが難しくなります。
また、問題を競技者ごとに変えると、ある競技者間での勝負と別の競技者間での勝負を比較するのが困難になります。それぞれの勝負間で完全に条件を揃えられれば良いですが、現実には問題の出し分けをしつつそういう調整をして公正さを保つのはほぼ不可能でしょう。
なので、私は後者の「大会のレギュレーション設定で、その競技の場に立ちうる人」を「全ての競技者が」の対象として考えることが多いです。(ただし、ごく内輪の小規模なクイズの場は例外になり得ます)
「事前に努力をすることで」
次に、「事前に努力をすることで」についてです。ここは、「努力」の内容としてどういうものを想定するかに曖昧性があります。特に大きいのは、「競技クイズの過去問を研究する」という努力をどの程度認めるかです。これは例えば、ベタ問のデリバティブ問題について難易度の判断を下げるかどうか、といった問題と直結しています。
これも、競技として成り立たせることに重きを置くなら、過去問からの知識獲得も含めてありのままの知識量を比較する形にした方が合理的です。
ここについては、非常に悩むところですが、私はどちらかというと「クイズ以外の手段で知識を得る」という部分を重視することが好きなように思います。
『クイズ文化の社会学』の中では、E.D.ハーシュ, Jrの「文化リテラシー(カルチュラル・リテラシー)」にあたるものがクイズの出題対象になっているとする説が提唱されています。文化リテラシーというのは、人が文章を理解する際に、文法や語彙以外に知っていないと理解できない、文化的な背景に関する知識のことです。私は、原始的にはクイズのイメージはこの考え方が的を射ていると考えています。
「過去のクイズによって知識を得る」という方針を認めてしまうと、この原始的なクイズの形態から、どんどん外れていってしまう可能性を拭えないと私は思います。1回のクイズで出せるものは有限個なので、過去問をベースにするとたまたま選ばれた有限個が掘り下げられやすくなります。するとその掘り下げられたものがまた過去問としてより掘り下げられるようになるポジティブフィードバックが働きます。結果、局所的に元々の理想から大きく外れた部分ができてしまいます。
なので、私は「クイズ以外の手段で」という条件付きで、事前の努力で当該の知識を得られるかどうかを基準にすることが多いです。
「現実的なコストで」
最後に「現実的なコストで」という条件についてです。これは、何をもって現実的なコストとするかがかなり曖昧です。
今の情報化社会では、クイズに出されるような非パーソナル情報については、わりとどんなことでも検索すれば出てくる傾向にあります。なので、検索して出てくる程度のものであれば全て現実的なコスト内とみなす人は一定数いるようです。
私は、これとは少し違った考えを持っています。検索をするためには、それを検索しようという意志が働かないといけない、という側面があります。私は「現実的なコストで」の要素としてこの側面も考慮することにしています。
例えば、「ある地方でのみ放送されているテレビ番組の内容」を題材として考えてみましょう。これは、その地方に住んでいて、その番組を見ていれば簡単に得られる情報です。
私は上で「全ての競技者が」という条件を考えているので、その地方に住んでいない人がどうやってその情報にたどり着けるかを考えます。
テレビ番組はテレビ局のWebサイトに色々と情報が載っていることが多いです。なので、それを検索すればその情報に辿り着くこと自体はそれほど難しくなさそうです。
問題は、どうやってそれを検索しようと思うかです。世の中にはたくさんの事物があるので、ランダムに検索していく中でそのローカル番組に辿り着くのは可能性として低いでしょう。その検索に辿り着くためのルートとしては、例えば次のようなものが考えられます:
「ローカル番組特集」のような記事で取り上げられているのを見る
その地方に住んでいる知り合いから紹介される
旅行などで実際にその地域に行って、たまたまその番組を見る
こういうルートを考えると、例えばいくつもの「ローカル番組特集」記事で取り上げられるようなものはコストが低いですし、人口の多いところはその地方に住んでいる知り合いがいる可能性が高くその分コストが低くなりやすい、といった風に考えることができます。
逆に言うと、検索すれば簡単に出てくるようなものでも、例えば記事などで言及されづらいなどで、こういう検索に至るまでのルートがあまりないものは、「現実的なコストで」の条件から外れてくると私は考えています。
社会生活基本統計を用いた推定
「全ての競技者が、現実的なコストで事前に努力をすることで、正答にたどり着ける」という基準をもう少し具体的な例で見ていきましょう。
「全ての競技者が」の条件は、大会のレギュレーション範囲全て、という方針にすると話しました。なので、フルオープンの大会を例に取ると、全ての日本人がこの「全ての競技者が」の対象となります(なお、正確には日本に来られる外国人も含みますが、今はその影響は十分小さいものとして無視します)。
事前の努力は「クイズ以外」と条件を付けましたが、実際のところその中身はどういったものになるでしょうか。
人は日々の生活の中で、あらゆるタイミングで情報を得ています。なので、生活時間の過ごし方を見てみるのが良さそうです。
生活時間に関する統計
総務省統計局が取っている統計調査の中に、『社会生活基本調査』というものがあります。これは、国民の社会生活の実態を明らかにする、という目的で行われているものですが、この中で日本人がどういう生活時間を過ごしているかを調べた統計があります。
この調査では、生活時間を以下の20種類の行動に分類しています。
2021年の調査では、1週間あたりにそれぞれの行動にかけられている平均時間は以下のようになっています。
日本人が生活から得ている知識は、こうした行動のそれぞれを介して得ているものと考えられます。
ところで、上では出題の基準に「全ての競技者が」という条件を付けていました。これは、当該の事物によく触れている人もそうでない人も全部、ということになります。専門に扱っている人はその事物を知るのは容易いので、実質的にこれは「普段あまりその事物に触れていない人が」という条件と置き換えて良いことになります。
したがって、これらの生活活動のそれぞれについて、あまり触れていない他者の情報をどれだけ得やすいか、によって、出題されやすさが変わると考えられます。
例えば、「身の回りの用事」に関する知識だと、男女で触れる事物が異なるもの(化粧など)がありますが、男性が得られるレディースの知識、女性が得られるメンズの知識、というようなものを考える必要があります。これらは、直接的に実践するのは異性装のような限られたシチュエーションで、多くは異性の家族・恋人・知人友人などとの付き合いで間接的に知るようなものとなるでしょう。例えば雑誌などの情報源から得られるような情報は比較的得やすいですが、実際にやってみないと分からないような内容になればなるほど、知識を得るコストが高いと思われます。
地域性の問題も大きいです。上でも話題に挙げたローカル番組のような事例は、基本的には知識の習得コストが高いと見なせます。地域性の高いものでも、「その地域の特徴として頻繁に記事などで取り上げられるもの」「観光資源として、他の地域から来る人に対して大々的にアピールしているもの」などの場合は例外的に習得コストが下がるので、クイズの題材にもしやすくなります。
「学業」や「趣味・娯楽」「スポーツ」などのような、生物学的性などの生得的な特質や居住している地域などに依ることなく誰でも触れやすいものは、比較的コストが低めになると思われます。ただし、例えば学問などは難解な概念を扱う部分があり、知識の習得そのもののコストが高いことは差し引いて考えるべきでしょう。
生活行動に関する統計
社会生活基本統計では、「生活行動」に関する統計として、以下の5種類についての詳しい調査を行っています:
学習・自己啓発・訓練
ボランティア活動
スポーツ
趣味・娯楽
旅行・行楽
これらは、直接的に他者の情報を得ることに結びつく行動なので、この結果を見ておくのも重要に思います。
以下の表は、令和3年の社会生活基本調査による各生活行動の行動者率を示したものです。
ごく単純化して考えるなら、これらの行動者率はそのまま各生活行動の中での出題比率として使えます。
問題となるのは、これらの生活行動相互の割合です。生活時間に関する調査では「学習・自己啓発・訓練」「ボランティア活動・社会参加活動」「スポーツ」「趣味・娯楽」の生活時間はそれぞれ週に12分、2分、11分、42分でした。単純化して考えるなら、これらも時間でそのまま割り振るという方法が考えられます。
ただ、これは現状多くの競技クイズの大会で用いられているジャンル配分とは大きな乖離があるように思います。特に、既存のクイズ大会では「学習・自己啓発・訓練」にあたる部分のウェイトが大きめになっていることが多そうです。
これは、同じ時間をかけてもそれぞれの生活行動に応じて得られる知識量が違う、ということが1つの原因として考えられます。スポーツなど身体を動かすタイプの行動は、文字情報的な知識よりは手続き記憶のようなものの方が得やすいでしょう。一方、学問系統の学習については当然文字情報の知識が優位になります。なので、そうした要素の分だけウェイトを付けて配分を考える必要があります。
今のところ、私はこのウェイト付けを十分客観的な指標をもって合理的に決める方法は見いだせていません。現状ではどうしてもここのウェイト付けに恣意性を持ち込まざるを得ないので、この出題範囲の方針は不完全なものになっています。
以上が、私が現状考えている、競技性を至上とした競技クイズのあり方での出題範囲についてのポイントとなります。
まだ完全に実用できる形に議論を詰められていないので、欠けた部分は今後どうにかしていきたいところです。
最後に、もう一度注意をしておきますが、ここで述べた出題範囲の議論は、あくまで「競技性」という部分にとことんまでこだわった、極端な場合での話になります。最初の方にも述べたように、クイズはそもそも競争的なあり方でなくても楽しみが存在するものなので、競技性をそこまで重視しない形の競技クイズは成立します。なので、コンセプトとして「競技性に振り切る」というのを掲げていない場では、この議論は完全には成り立ちません。ここで挙げた議論のポイントを既存のクイズ大会や問題集に適用する場合は、そうした前提条件についてきちんと考慮した上でその先のことを考えるようお願いします。