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家族としての安定期

僕が高校2年生の時。
母親が退院してきた。その姿、以前とは違っていた。
目に力がなく表情は冴えない。言葉に力がなく身体の動きがゆったり
している。
ショックだった。もう普通の人ではないんだなと感じていたと思う。
いずれ、元に戻るだろうと思っていたけど、そうはならなかった。

精神薬のせいか、寝る時間が増えていた。午前、午後、夕食後など寝てしまうこともしばしば。
お風呂に入っていて寝てしまうこともあって、30分、1時間してから起こしに行ったこともある。
普通の人のように動くことが大変なようだった。気持ちは動こうとしても、身体がついていかない。
それは母親にとって負い目となっていた。

それでも徐々に日常生活に慣れてなんとか適応できるようになっていった。
小学3年生の頃からだったか、我が家では父親が衣類に使用する糸を専用の筒に巻きなおす仕事をしていた。
当時、愛知県尾張地方は紡績業がさかんで、下請けの自営業でも十分稼げていた。
母親も調子の良い時は手伝いができるまでになっていた。

そんな中で僕は大学生となった。
この4年間が一番平和だったかもしれない。

法学部に入ったものの、授業はつまらない。「マルサの女」の影響からか、国税査察官、社会保険労務士など、法的資格を目指そうと思っていたが、
そんなことは大学入学してから自分にはやる気がないことに気が付いて
やめた。

本当はテレビドラマの影響からか、薬剤師になりたいと高校生の時に思ったものだけど、数学、英語、理科など苦手の科目のオンパレード。特に数学。
高校の時は理系をあきらめて文系に行くことにしていた。

大学3年生で学部を変えることも考えたが、自分の勉強のやる気のなさ、
ハングリー精神の欠如、マンドリンクラブに所属して楽しかったので学部の変更や勉強をやり直しことは選択しなかった。
掃除のバイトを土日を中心に時々して、実家でのゆるい生活をしていた。

親の車を借りて運転をして時には大学に通う。授業中や電車の中では本を
読む、時に仲間とお酒を飲む、麻雀、銭湯、カラオケなど一般的な大学生の日常を送っていた。
就職活動が始まる大学3年生後半になっても特に目標はなかった。

ただ、マンドリンは大学から始めたが、コンサートでも使うような会場で
50名以上のオーケストラを組んで演奏することは非常に楽しかった。

高校の文化祭のノリそのもの。お金をもらってコンサートをしていたので
練習もほぼ毎日していたと思う。
それは大学生活で非常に有意義であり、貴重な経験だった。

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