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母親との別れは新たな始まり

【母親との別れは新たな始まり】

母親が入院先の精神科の部屋にて心肺停止で発見されたと突然の連絡。
もともと蘇生措置は希望していないためそのまま、
死亡確認となった。

精神科へ再入院して7年ほど経過。
今の精神科すでに4回目の入院。

忘れもしない。僕が13歳の時、学校から帰宅後。
寝室のカーテンを閉めて、暗い部屋で壁に向かって正座をして独り言を続ける母親。

ここから始まった統合失調症。
正確には、母親は高校生の時から精神不安定で、結婚するまでの間にノイローゼの診断で入院していたらしい。

精神の病のキャリアは65年ほど。服薬もほぼ絶え間なくしていた。
その身体でよくぞ結婚して僕を産んで生きてこられたもんだ思いました。

母親にとっては、親や家族が近くにいることが精神の支えでそれが母親、夫の順で無くなっていき、
僕も母親との二人きりの生活には耐えられなくなって、家を飛び出すように結婚する。

そして、母親の精神は不安定になり、身体も弱る。
特養に入所するも、精神はさらに悪化。施設から抜け出すようになり、再び精神科へ入院。
そのまま最後まで精神科のお世話になりました。

統合失調症のことを調べるうちに、精神薬は危険度が高く、精神科入院もほめられたものではないことは分かってきました。
しかし、それでも僕は精神科に母親を入院させました。

特養では、「母親が家で暮らしたいと言っているからそうしたら」とか、「母親の面倒は子供であるお前が面倒をみるべきだ」
ということも言われたりしました。
母親本人の権利や尊厳もあることも知っている。
しかし、結果として、母親が周囲に対して起こしたことは、だいたいこちらが後始末にまわることになった。
親戚に迷惑をかけたことも多数。

母親と同居を続けていたら僕は母親とケンカばかりで精神を病んでいたからどちらかが死んでいただろうと思う。
母親の強烈な依存性、それに引っ張られるような、僕と母親の共依存。

そういう意味では精神科の医療保護入院は助かった。母親が入院を拒否しようとも入院させることができたから。
僕には統合失調症の急性期と呼ばれる症状の時は、2日くらいが限界だった。親子の立場だと、叱られることも多いので
それも耐え難い。しかも、話がオールナイトでも続くことがある。
なので、精神科への入院がなかったら、近所の親戚も精神が壊れていたかもしれない。(少し壊れた)
僕も離婚だったろう。一度は僕も精神がおかしくなった。

強制的に入院させた時には、「だましたな」と怒られ恨まれたこともあったなぁ。

精神科の入院は確かに問題にはなっているけど、今まで精神薬漬けで沼にはまっているような人には、理解ある精神科医が
いないと抜け出すのが困難だろうと思う。または精神薬を飲んでいる当人がどうしたいか。本当に治したいか、抜け出したいか。

これからの子供や青年の方には安易に精神薬を飲んでほしいとは思わないけど、現状、精神薬頼みの人には、いろいろな選択肢が必要だろうと思う。

ただ、本人の言う通りにしてたら、もっと早くに亡くなっていたかもしれない。
精神薬を飲むとおかしくなることはなんとなく知っている。しかし、薬を安易に抜くとそれも辛い。
その間でずいぶん苦しんでいたと思う。
一時期、特養で精神薬を激しく拒否して食事量が減って弱ったことがあったけど、そのまま特養にいたらもうこの世のにはいないだろう。
当時は、僕は精神科への再入院という選択をとった。まだ、母親に対してすることがあったのだろう。
その時の特養は精神薬の抜き方にちょっと問題があったし。

いろいろと統合失調症のことについて書いているけど、
母親に対しては感謝している。
おかげでいろいろなことを知ることができたし、多くの人にも出会えている。

母親は精神的に不安定で、僕に対しても愛情を注ぎたいけどそうできなかった面を理解できる。また、可愛がってもらったことも十分に感じている。
僕の手助けや援助が不十分で、母親は寂しく暮らしたことも多いだろうと思う。

自分の人生の半分くらいを、母親の統合失調症の支援に回っていたように思う。1人っ子で逃げるわけにもいかなったし、問題はどんどん出てくるので。
これからは人生の分岐点で新しい展開となるだろう。

母親に対しては、産んでくれて感謝しているし、人生の大半を統合失調症を抱えて生きてきたことに対して
「長い間、本当にお疲れ様」と声をかけてました。

母親はもう二度と生まれ変わりたくない。永遠の眠りにつきたい。そんなことを言って嘆いたことは何度もあったし。

母親のような人生は僕には歩めそうにないので、
心底すごいな本当に思っています。

コロナ感染となり、精神科も入院が禁止、1年前くらいからZoom面談しかできなかった。
しかし、10日前くらい、気胸があるとのことで、他の病院での検査のため、僕も呼び出され母親とは偶然の再開。
そこで話をすることができた。母親は強く僕の手を何度も握りしめていた。

元気そうだったので、まさか急に亡くなるとは思っていなかった。
明日のことは分からないのは本当で、今日1日を精一杯生きるように意識したい。

たまたま、病院で直接会えたのは幸いでした。

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