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灰色の人生の足音

会社を退職する直前、農業をしてみたいとふと思った。
海外農業研修のような情報を見つけて行ってみたいと希望だけ胸ふくらませて。
その後も、島根県の1年間の体験に応募しようと何度かしたが結局連絡せず。
新しいことを始めるのがよほど怖かったのか。悶々として悩んでばかりだった。
やりたいことは見つからず、アルバイトとして働きはじめた佐川急便の夜勤は2週間後に肺炎になりかけ辞める。
それでぶらぶらと過ごすようになった。
それは単純に甘えているだけで、自分で切り開く力、やる気、気持ちが無かった。
そういう意味のないような自堕落な生活が1年と少し続いた。
そして、12月ある朝を迎えるのであった。

父親が1人で歩けないと言った。支えればなんとか歩けたので、近くの県立病院に行くことにした。
しかし、これは間違いだった。
本当は、救急車を呼ぶべきだったがこの時はそれほど大事になるとは思いもしなかった。
病院に行くが混雑していて2時間以上待った。救急車だったらすぐに搬送されて検査、処置を受けられただろうに。
入院することになったが、病室の空きがなく他の病院に行くことになる。結局、入院したのが15時過ぎ。
朝から9時間以上経過していた。
実は脳梗塞だったので、救急にかかれば病状はもっと軽かったかもしれなかった。
入院した時は、足がびっこを引く程度で、話もできたし意識もはっきりしていたので安心していた。
しかし、その夜に意識が無くなり、脳梗塞が悪化。
2日目に意識が戻った時には、左半身麻痺、目が見えにくくなり、話しにくくなっていた。意識もぼんやりしていた。

しかし、これだけでは済まなかった。
母親はこの2ヶ月くらい前に精神状態が悪化していたので一時は入院を検討していた。病室の空きがなかったので自宅にいたが、
父親の急な脳梗塞での入院から混乱してしまい、精神が坂を転げるようにどんどん悪化していった。
病院で父親を見ても、「あれがお父さん?」というくらい取り乱す始末。

父親の入院から2ヶ月後の、母親は再入院となった。
その1ヶ月後、父親は退院となったが、僕は仕事をしていなかったし、母親は家族と過ごしていないと精神状態が悪くなるので、父親は
家で介護をすることにした。母親は再び退院して家に戻ってくると思っていたからだ。

こうして、父親の介護が始まることとなった。

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