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藤寺非宝『諸塚太伯山調査録』について

藤寺非宝については、解る範囲のことを宮崎大学みやざき伝承プラットフォームの「研究者アーカイブ」に書いたが、ほとんどその人物像は不明のままである。
今回、諸塚村関連の執筆のため、以前から目を通そうと思いつつも、先送りになっていた『諸塚太伯山調査録』について、メモを取るついでに情報を公開することとした。今後、読み進めていくうちにポイントとなる点を追記していくこととする。

藤寺非宝『諸塚太伯山調査録』諸塚村、昭和12年(1937)

昭和12年5月28日 泉福寺望西軒下 藤寺非宝

【目次】
一、起序
二、高千穂七箇山太伯大司大明神
 (伊)豊前英彦山との関係
 (呂)自在天神に就て
 (波)造化三神及二神鋳像(朝鮮桓雄と呉太伯)
   (付考)太伯山と河伯
   (付考)韓神と曽富利神と五十猛命に就て
   【補註】『大祓と追儺式と午頭天皇』
 (仁)太伯山神に就て
三、太伯山諸塚
 (伊)諸塚
 (呂)藤岡川
 (波)飯干観音とトヤ塚観音
 (仁)若狭観音
 (浦)秋元天皇大明神太子ヶ窟
 (辺)神代三山稜に就て
 (登)八村大明神
四、立岩大明神と太伯山下宮
 (伊)立岩大明神
 (呂)太伯山下宮
 (波)後記
付録
 百済渡来大山積神
 朝鮮開国神話

【口絵】

高千穂二上峯
高千穂速日峯 奉納神鏡
太伯山左襟神像と造化三神二神鋳像
太伯山特異古神像
太伯山麓住民の日常使用せるツヅラカゴ及ヨギリ
向山秋元太子ヶ窟天皇大明神神面
太伯山麓七ツ山村飯干城址藤岡家観音堂諸尊
太伯大司大明神山上址
英彦山四王寺
能満院慈欽坊発願の神輿其他
七ツ山桂甲斐家社家保管の品及桂八幡、本森八幡其他合併社の諸像
中央は太伯山奉納自在天陣刀にて、神面は太伯山のもの多く、三大明神及八幡のものあり、
古木は鉄鏃数本の射込まれたる神木(榧)の朽ちたるものなり
英彦山慈欽坊の遺品及諸塚神面
太伯山大司大明神
日向国臼杵郡高千穂太伯山麓
「七箇山村 日隠大明神疫病除河伯御符」
右は牛頭鬼、左は河伯。頭部は所謂水皿也。
神武天皇第一皇子 太郎命ノ鬼八退治彫刻
山ノ大王様へ日小籠り申し上げ状
太伯大司大明神額及神面等
太伯大司大明神神面
太伯大司大明神菩薩鬼面
七ツ山本村甲斐家所蔵
太伯山棟木の写謄
七ツ山本村甲斐家所蔵
太伯山棟木及菊池系図の初頭


太伯山上西の神前の円墳
太伯山上西の神前お池


諸塚円墳
飯干城主の遺品
飯干城持仏堂の諸尊像
藤岡家の祖飯干城主菊池主水の立像
高麗バゞおしなさんの立像
おしなさん高麗より持参の品


二上峯別当観音寺寿養奉彩色の飯干城
持仏堂観音と城主菊池主水の像
太伯山トヤ塚観音座像
七ツ山立岩大明神
飯干立岩
立岩大明神境内の石器
児湯郡美々津立岩大明神大権現境内の
神武大帝御腰掛岩
太伯山下宮
郷社 諸塚神社
与狩内天神鐃速日命御像

一、起序

 実は今を去る四年前の昭和九甲戌年六月七日より十六日の十日間に亘りて諸塚太伯山を中心に耳川の歴史沿革を探求し、容易ならざる史伝の伏在せることを感知したのであつた。爾来事に触れ時に際し種々なる資料に接したのであるが、昭和十五年庚辰年が恰も紀元二千六百年に相当り、その大祭の全国的に施行せらるゝに就き、当高千穂真正史の埋もれたるものを世間に発表し、且は後世に伝へんことを念願し、微力ながら稿を起し、種々各方面の研究を続けて居る次第であるが、諸塚村よりの御依頼をうけ、本年三月二十四日より二十六日にかけて太伯山の第一次調査をなし、又々五月十日より十五日にかけて第二次の踏査を致したのであるが、いよ\/その歴伝の複雑なることに想到し、殆んど筆に窮して居るのであるけれども、かくては折角のことも霧散し終ることをおそれ、今回二度にわたりての調査資料を一通り整理し置くことゝする、全面的の論究は、本年春彼岸中日に論稿せる「臼杵高千穂宮謹考」及「付録太伯海外文献」にほゞ大略を尽して置いたから、この度びは実地踏査を中心に記述致す考へである。

太伯山が諸塚と呼ばれ、神々の御神陵なりと伝へられたることも、
   御幣立つ諸羽の山に我行けば太子のそこも御幣とゞまる
と高千穂神楽唄に「御幣立つ諸羽の山」とうたふことも、いづれも日本民族宗源たる太古日向国高千穂の神々の御塚なりとして奉斉し来れる尊き御山なることを証明すべきものである。
※高千穂郷において塚の名が多いのは諸塚村。諸塚、飯塚、花塚、トヤ塚、桐ノ木塚、高塚など。大円墳が十数カ所にある。

二、高千穂七箇山太伯大司大明神 
村長甲斐忠氏よりきいたことであるが、太伯社の鳥居の用材を伐るときは、必らず心(シン)が二筋入つて居ることが慣ひにて、昔よりその不思議を伝へもし、目のあたりに遭遇したこともあると、古老が話して居たと物語られたのであつたが、元来鳥居は陰腸合体によるものでもあり、且は又、太伯山上の諸塚を■■二尊の御紳陵なりと伝へたること等よりして、それを甚だ妙味あることゝ思ふた。

 (伊)豊前英彦山との関係
飯干城主の後胤たる藤岡家(菊池氏)であつて、同家にそれらゆかりの記録や文書等を数多く保存して居る。
安政五年(1858)、豊前国田川郡英彦山四王寺能満院ノ住慈欽坊。
日子十二社といふは、太己貴神が田心姫命を娶り、宇佐島より来り北岳に住せられしが、蒼鷹白鷹の示現によりて八角五光の玉石に天太子■津姫命の影向せられたるを知り、(中略)太己貴神は農耕の神たるばかりでなく、薬の神でもあるが、その為かと思はるゝ形式無類に属する神符の薬入りのものがある。牛玉宝印。
太伯社の社家たりし常磐居鳴門の家に、慈欽坊が借りて用ひたりといふ法螺貝あり、(中略)百八玉の数珠や般若心経等を今に大切に保存して居るのは嬉しい。
※『椎葉・諸塚村史料調査目録 昭和57年度』には「藤岡義一家文書」の目録が掲載されている。

 (呂)自在天神に就て
慈欽坊の手記(天保8年(1837))に、英彦山大権現、南無観自在菩薩、諸塚山大明神、天満大自在天神、飯干八大童子の名がある。
太伯山の主神=国常立尊(天御中主尊)は自在天神として崇敬されていた。
高千穂町野方野には、牛神(石上)というものあり、八十八社の一つ。径一間有余の巨石。国常立尊を祭る。これは牛神と石神を兼ねたる代表社。全国的に自在天の祠廟は、巨石崇拝が最大原因であり、これはインドでも同様。仏説の四大劫(成、住、壊、空)の初め、劫初の石と、神典にいう天地の中の一物葦牙(カシカビ)の如く現れる天御中主尊、国狭槌尊、豊斟渟尊の造化三神(日本書紀)と容易に集合したものである。狗留孫仏石や迦葉仏石も同様。過去七仏の思想の現れで、太古よりの磐石、前世紀よりの遺石の意味であろう。これなどには陰陽石が極めて多い。高千穂町二上峯にも陰陽二岩を伝えている。
桂の甲斐社家所蔵、太伯山神に奉納と伝える三尺二寸の陳刀(応永23年(1416)信国在銘)の両面に梵字と銘がある。

P14

これは天正6年(1578)11月中旬、耳川の合戦の時、大友宗麟は太伯山神に祈ったが、その大敗危難の節、一命を助かり帰途その刀を奉納したものと伝える。太伯山と自在天の集合を意味する。

 (波)造化三神及二神鋳像(朝鮮桓雄と呉太伯)
七ツ山本村の桂八幡に造化三神及び二神の懸仏式の鋳像(銅像)二面がある。本来は太伯山上社のもの。
『太宰管内志』に児湯郡と臼杵郡の堺に太伯山という高山があり、そこに石屋があり、ここに呉の太伯が住んでいた跡と伝えられているとある。

『宇佐託宣集』に、人皇第一の主神日本磐余彦年十四歳のとき、帝釈宮に昇り、印鎰を受け執り、日州辛国城蘇於に還り来たるとある。霧島辛国嶽と神武天皇の御事を物語る。延喜式に「曾於郡韓国宇豆峯神社」とあり、韓国の文字に注意を要する。神武大帝を呉太伯と同視したじだいがあったのではないか。延喜式に高千穂社が記載されていないことと、天孫降臨高千穂二上峯も明瞭でなく、不思議である。余程複雑な問題が介在したであろうことを推考し奉るものである。姓氏より見るも惟任氏(漆嶋氏)は日向国臼杵郡高千穂明神にて、その御祭神は姓氏録に「新羅国王之祖也」と明記せられたる稲飯命にましますが、それさえ世間は関知せず、文献にもあまり見受けらないことは、如何にも不審に耐えざるところである。

   (付考)太伯山と河伯
諸塚太伯山山麓に日隠明神。大国主命、大年神、若年神を祭る。同社の川太郎の御神符、頭に皿の裸形像を疫除けとして毎年配布する。『和漢三才図会』に「川太郎は西国九州の渓間池川に多く之有り」。管公の歌に「いにしへの約束せしを忘るなよ川たち男氏は管原」という呪文が飯干の藤岡家にきわめて丁寧に手記してある。高千穂町では、管原姓を名乗る者は、二上峯西麓社人原家のみで神獣が川太郎である。
河伯のことは、推古紀二十七年夏四月近江国蒲生河に出て、同秋七月摂津国の漁人が罠で捕らえた記事がある。
高千穂特有のものに河太郎湯。川床の凹処に天然の水を入れ、河原の石を薪で焼き焦がしたものを投げ入れ沸騰させ入浴する。五ヶ瀬川には河良(がうら)と称する痕跡がある。川太郎は、水臼杵(みずうすき)という穀物精白用具を神秘化して物語にしたもの。河伯と水臼杵(みづざこ)をサコンタロと称す。これは太伯山の臼石杵石の伝説、臼杵郡の沿革ともつながりがある。臼杵は文明の原始を物語るもの。
高千穂川に五つの流れあり、その一つ一つに河伯の頭領あり。七折川の綱ノ瀬の弥十郎、山裏川の川ノ詰の勘太郎、岩戸川の戸無の八郎右衛門、押方二上川の神橋の久太郎、三ヶ所川の廻淵の雑賀小路安長という。日本書紀の水神の顕著なものに伊弉諾尊の火神軻遇突智を切って五段として五つの山祇の神(諸塚太伯山の高山、中山、麓山の所祭神也)を出生した。その血の凝りしたたりて成れる神に闇靇?(くらおかみ)と闇山祇(くらやまづみ、埴山姫(はにやまひめ))と、闇罔象(くらみづは)の三神あり。
罔象とは、支那撰述の白沢図に「水之精を名付けて罔象という、其の形状小児の如し、赤目黒色大耳長爪」とあり、延喜式鎮火祭の祝詞に罔象について「更に生んだ子水神、瓠(ひさご)、川■、埴山姫、四種」。この瓠は東国通鑑(巻一)に「新羅始祖(朴赫居世主)新羅は馬韓において瓠公を招聘し遺す、瓠公は本と倭人初め瓠で海を渡って来たので号す」新羅始祖である赫居世主は朴を姓とする。朴は瓠と同じもの。新羅国王は、日本国勅撰の新撰姓氏録には新良貴氏の祖神を述べて「稲飯命者新羅王国之祖也」とある。国史高麗本記に、太伯山の南、柳花という河伯の娘に会い、連れ帰り、一室に幽閉した。不思議なことに日輪が光り、遂に妊娠し、大きさ五升くらいの大きな卵を産む。後にその殻が破れて男子を産む。朱蒙と名付け、「我は是天帝の子河伯の孫なり」と称し、遂に高句麗王となる。
神功皇后の外戚祖神である天日予と比語売曽(ひめこそ)神の日■伝説と高千穂の地勢が古事記に「韓国に向う」とあり、それが直ちに「日に向う」である。
山城国乙訓郡向日明神にも河伯の物語あり、
高千穂特有の言葉に、鋤のことを小韓(こがら)、カラスキともいう。山裏村の洞嶽権現には、祈念のとき、鋤鑿をを奉納する習わしがあるのも興味を覚える。これは素戔嗚尊の韓鋤剣、高千穂明神稲飯命の鋤持神であることも考え合わせるべきである。素戔嗚尊への朝鮮への渡航の時、霖雨(ながあめ)に会われ簔笠をつけたる姿にて舞うものである。
祇園午頭天王縁起の組織は、日向国高千穂三田井の鬼八退治の縁起に非常によく似ている。鬼八走健(はしりたけ)を退治したのは三毛入野命ではなく、神武天皇第一皇子太郎命で、その姫君は■ノ目御前(稲穂命の女)である。

   (付考)韓神と曽富利神と五十猛命に就て

   【補註】『大祓と追儺式と午頭天皇』

 (仁)太伯山神に就て
太伯山麓の住民は、太伯山大司大明神を風の神様、天御中主尊神様といい、祭には必ず雨が降ると伝えている。

三角形の切紙の中身は、カラスハギという灌木(薬草、苦味治腹痛等)の枝を4、5寸ばかり折りとりて一本挿入せるもの。

三、太伯山諸塚

 (伊)諸塚

太伯山山頂、を東西二方面から遙拝する為ニ空木ヶ原に東ノ神前、赤木ヶ原に西ノ神前が設けられている。この周辺には大杉がそびえ立っているが、高山に自生しないので、植林と考えられる。西ノ神前には深六尺、径八間位の池(土壕)が掘られているがおそらく墳を築くとき土を掘った跡だろう。塚は各々高さ七尺位。

諸塚という範囲は絶頂中心として西方二十町ばかりの山の峯を称したもののようで、太伯山上社址の西方十町ほどに飯塚と称する所がある。ここに諸塚に供える供物を設ける塚があるという。明治末の大雨による山崩れで、この塚に埋蔵された矢の根、曲玉、陶器などが水に洗い出された。黒木虎平という人たちが拾ったが紛失したという。

塚原の黒木弥六氏(36才)が十歳の頃飯干川で水泳していたときに拾ったもの。淡黄土色、周り一寸二分、長六分五厘位、重さ五グラム程で、穴が通されている。

 (呂)藤岡川
耳川の上流の藤岡川の伝説が『太宰管内志』にある。
   【参照】『藤岡山天真名井』『七夕と日本神話』

 (波)飯干観音とトヤ塚観音

 (仁)若狭観音

 (浦)秋元天皇大明神太子ヶ窟

 (辺)神代三山稜に就て

 (登)八村大明神

四、立岩大明神と太伯山下宮

 (伊)立岩大明神

 (呂)太伯山下宮

 (波)後記

付録 百済渡来大山積神 朝鮮開国神話


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