楢木家には二度訪問し、茂行氏にお目にかかった。一度は、平成7年(1995)、写真を提供して貰うために初めて訪問した。その時には範行の妻美智子さんがご健在だったが、お話をうかがうことはできないまま、東京に就職してしまいご健在のうちに再訪することはできなかった。二度目は、平成16年(2004)、今後の資料集を想定して、葉書などの資料を熊本市の江口司さんにお願いして、スチール写真で撮影していただいた。その際に、御尊父である楢木範行について伺ったが、物心ついたときには亡くなっていたので、まわりの人たちから聞いた印象しかないとのことであった。
ここに紹介する長男茂行氏の著書『一人ひとりを伸ばす教育』は平成10年に刊行されていることから、一度目の訪問の後、茂行氏が退職されてからまとめた御著書である。おそらく二度目の訪問の際に、この御著書のこともうかがったのだと思うが、楢木範行や柳田国男の名が書かれていなかったことから、入手していなかったようである。
ここで自らの生い立ちについて触れた箇所を引用する。
「母の兄と碁を打ちながら突然倒れた」と、範行がなくなった状況が記されている。次に、父範行に対する気持ちを吐露している。
以下に範行亡き後の家族の暮らしぶりが記されている。
昭和31年1月、茂行の母、美智子さんは茂行の進学の相談を柳田国男宛てに手紙を送り、柳田から返事が来る。(根本的な話ではあるが、楢木家から柳田国男へ宛てた書簡は果たして遺されているのだろうか?文字の判明しない部分が多いが、後に修正していきます)
地元の国立大学への進学をすすめ、東京の大学、なかでも國學院大學の実情への不満が現れている。
母や柳田の心配をよそに、本人はそれほど真剣に進学について考えていたわけではなかったことが分かる。
茂行は受験に失敗したことを柳田へ報告したと思われ、柳田は葉書三枚に渡ってアドバイスしている。柳田としては、父楢木範行の意思を引き継ぎ、民俗学に興味を持っていると感じたのか、当時、鹿児島で高校教員をしていた北見俊夫を紹介しようと提案している。
8月、茂行のことが心配になった柳田はみち宛てに、大阪に住んでいる茂行から直接手紙をよこすように伝えている。これに対して素直に手紙を書いたようで、みちの住所へ茂行宛てに柳田は返事を書いている。
そして、翌年の正月、茂行が年賀状を送ったのか、柳田は大阪に住む茂行に長い手紙を送っている。
大阪に住んでいるということもあり、澤田四郎作を紹介している。実際に澤田を尋ねたかは不明であるが、茂行は見事に奈良学芸大学に合格する。
卒論は、範行も調査した鹿児島方言についてであったが、その後、茂行は民俗学の研究は行うことはなかったようである。
これ以降、楢木家への柳田国男の書簡は遺されていない。
民俗関係者が楢木家に連絡を取り始めるのは『日本民俗文化体系』の編纂のため、最上孝敬と村田煕 が連絡を取っている。