皿に乗る人 落ちる人
昔、駐車場に停めておいた車のフロント部分ががっつり凹まされるという、当て逃げに遭った。
グリルバンパーが凹み、フォグランプが片方割れていた。
「聞いてよ~!車当て逃げされた~!」
というわとりの話に『自損じゃないの?』とか『そんなところ(駐車場だけど)に停めたからじゃ?』という人は今まで一人もいなかった。
のに、性犯罪に遭うと『冤罪じゃないの?』とか『そんなところにいた自分が悪いんじゃ?』って言われるのなんなんすかね。これを言われる理不尽をどう表現したらいいんだ…と考えてたら当て逃げの話を思い出した次第です。(実話だし)
冤罪だとか被害に遭う方が悪いって考えの人とは話すことはないんだけど、被害に遭ってからすでに10年以上経ってても未だに人としてまっとうな生活が出来てるとは言い難く、男性にはうっすらというよりは割と色濃く嫌悪感あるし、それなりに人生を歩いてる人たちとの世界の見え方にギャップを感じて孤独だし、人を信用できなくて職場でハラスメントや差別を感じると耐えられなくなって退職してしまう。
今はまだ仕事にありつけているけど、この先貯金もなく果たして生きていけるのか。まったく明るい未来がない。
わとりが調べた限りでは、こうした被害のその後を救済するシステムがこの社会にはないようなんだけど…カウンセリングも自腹だし。
誰かご存知ですかな?
トラウマケアに必要な家族のサポートなんて、虐待家庭卒現在家族から逃亡中の私にあるわけもなく。
それでいて生活に逼迫すると「自己責任」と言われちゃう。
土俵のでかい話をすれば、社会の中で起こる犯罪を抑止して被害を減らす努力を社会はしなければならないし(自身の安心安全のためにも)、起こってしまったことに対してサポートがある安心は必要だ。保険ってそういう考えの元に生まれた制度じゃないのかな。
そして社会ってつまりそこに生きる私たち一人ひとりが作っているものだと思うのですが。
この社会の中であらゆる被害は発生していて、その事実を日々のニュースの中でみんな知っているはずなのに、それを受け止める器がないなんて。
車をぶつけられたら自動車保険があるけど、犯罪被害に遭ったあとの人生を助けるものは特にない。
日常の皿から押し出された人々は奈落に落ちるがままで、わずかな幸運を掴める人だけがまたその皿の上に戻れる。
わとりは奈落に落ちながら、どこか掴まれる場所がないか手足をじたばたしているところなんだけど、果てしなく虚空が広がっておりますことよ。
時々その虚空に絶望してもうこのまま奈落の底に墜落して粉々になりたくなる。
昔受けたカウンセリングの先生に、やはり性犯罪被害に遭った女性が今は信頼できるパートナーを得て社会的に成功しているよ、という話を聞いたことがあった。先生は励ましのつもりだったと思うけど、私はそうなるルートを歩いていない。
信頼できるパートナーなんて、被害に遭ってなくたって得るのが難しいじゃない。
不運のめぐりあわせに飲まれてそのまま死にゆく人もいる。
幸運に恵まれ続けて幸せに生涯を終える人もいる。
幸と不幸の帳尻はあわない。
いつか帳尻があうのだ、と思ってないとみんな生きるのが辛すぎると知っているのでしょ。
わとりの人生は宝くじ1等に3回は当選しないと帳尻合わない。