ゆるす言葉
ゆるしとは「相手を無罪放免にする手段」ではなく、「自分自身を自由にする手段」
この本を手に取って、
適当に開いたページで見つけた言葉。
今まで何て傲慢だったんだろう…
そう打ちのめされた言葉。
ゆるしてあげる
ゆるしてあげない
何かに腹を立て、客観的にみても相手に非があると思った時、ゆるす/ゆるさないの決定権は自分にあり、ゆるしてあげる心の広さを自分自身に求めた。
そういう人間でありたいという思いがあったから。
けれどダライ・ラマのこの言葉に触れた時「ゆるしてあげる」と言う発想そのものが大変な思い上がりであると気がついた。
何故なら
怒りの対象に対して最も精神的優位に立てる手段がゆるし(許し/赦し)だから。
中にはゆるす必要のない事もあるけれど、そのことに囚われながら生きていくのはつらい。
だからそのつらさから自分を解放してあげる。この場合、ゆるすというのは忘れるに近いのかもしれない。
残りの人生を怒りや恨みで満たしたくはない。
けれど怒りの対象が親しい人や家族だった場合はどうだろう。
ゆるしてあげた
という傲慢さが残っていたら。
自分の人生から追い出してしまった相手ではなく、その後もそばにいるであろう存在に対して。
書店や図書館というのは不思議なもので、何かその時に必要なものが、書棚から自分を見て、手に取って、と呼び掛けてくるような気がしてしまう。
この「ゆるす言葉」も家族に対してすごく腹を立てていた時期にたまたま手に取った一冊。
私は神様じゃない。
ただの人間が誰かに赦しを与えるだなんて。
すべては自分のためでしかない。
そう気付かせてくれたのだから、やっぱり本が呼んでいたのだろう。私自身がゆるしを求めていたのかもしれない。
そして私は怒りから自分自身を解放してあげた。
誰のためでもなく自分のために。