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言葉おじさん的「知れてよかった」考察

 ひさしぶりに言葉おじさんとしての投稿である。といっても「こんな言葉の変化、嫌だ、嫌いだ」というのではない。確かになあ、その言い方は合理的だが、昔はなかったよなあ、というようなことである。それについて文法的にどういうことなのか、考えてみる。

「知れてよかったです」という表現。

 誰かの講演や講義を聞いて。あるいは、本や文章を読んで、自分の知らなかったことを初めて知って、感謝の気持ちを込めて、若い人が言ったり書いたりする。

「原さんの文章を読んで、イシグロ・カズオのことが知れてよかったです。」

 感謝の言葉を頂いて、とても嬉しいと同時に、「知れてよかった」って、昔は無かったよなあ。その場合、まわりくどいが「知ることができて良かったです」だったよなあ。と昭和おじいさんは思うわけである。

 これ、違和感の原因を分析解説するには、何段階か必要なのだな。

まず、動詞「知る」は五段活用の動詞なので、

参考まで
未然形 知ら(ない) 知ろ(う)
連用形 知り(ます)
終止形 知る 
連体形 知る(とき)  
仮定形 知れ(ば)  
命令形 知れ 
「知」のあとが「らりるれろ」五つに変化するから五段活用。

可能の意味を表す助動詞「れる、られる」をつけるには

未然形「知ら」+「れる」で、「知られる」となるのがいちおう文法上の形なのだが、

知られる」と耳で聞くと、いちばんはじめに意味として浮かぶのは受動の「知られる」(例文 秘密を知られてしまう)になってしまう。次が尊敬かな。いずれにせよ、可能の意味として伝わりにくい

助動詞「れる、られる」には、可能、尊敬、受け身、自発の四つの意味をつける機能があるのだが、「知られる」では可能の意味として伝われりにくいのだな。

なので、五段活用の動詞は、語幹+(れ)るで、可能動詞という形になることがある。(可能動詞になると、上一段もしくは下一段動詞になる。)

 五段活用動詞は、可能の意味だけを表す上一段または下一段動詞に変身するのだな。これ、五段活用だけで起きる。「走れる」「飛べる」とか。

 「ら抜き言葉」のようだが、そうではない。「ら抜き言葉」というのは、本来可能動詞にならない、元の形からして上一段、下一段の動詞を可能動詞化しちゃうことを指すのだな。

上一段活用の動詞「見る」「見れる」としちゃう。

下一段動詞「食べる」「食べれる」としちゃう。

どちらも普通に誤用が定着しちゃっているが、まあ20年前くらいまでは正しくない日本語だったのである。「見られる」、「食べられる」が正しい日本語なのである。

 これに対し、五段活用動詞「走る」→「走れる「飛ぶ」→「飛べる」五段活用の可能動詞化である。

 五段活用に「れる・られる」をつけた場合の「走られる」「飛ばれる」って文法的には正しくても可能の意味として全然伝わらないでしょう。

 という「可能動詞」というものがあるということから、「知る」の可能動詞「知れる」というのができておかしくないし、「知ることができる」ことを「知れて」と言っても文法的に間違いではない。だから「知れてよかったです」は、本来、間違いではない。まず「ら抜き言葉」ではないという確認をした。

 にも拘わらず、違和感があるのはなぜかと考察するに。

「知れる」という動詞、慣用句的に「お里が知れる」が、真っ先に思い浮かぶのだな。これ、意味的には可能と自発の間くらい。「ことばづかいや動作などから、その人の育ちや経歴がわかる。」という意味である。自然とそうなる、自然と分かってしまう、という意味で自発と可能の中間的ニュアンスだと思うのである。

これ、ネガティブな文脈でしか使わない慣用句なのだな。振る舞いがあまりに上品で、貴族出身だということを隠そうとしてもばれてしまうときに「お里が知れる」とは言わない。貴族のふりをしても振る舞いから、成り上がりものだったり、田舎者だったりすることがばれちゃうというときに「お里が知れる」と使うのである。

 つまり、「知れる」という言葉は、昭和までの日本語使用環境の中では、「お里が知れる」というネガティブ文脈でのみ聞き馴染みがあり、それ以外では使われることのない「自発・可能」動詞だったのだな。ネガティブなことが自然にわかってしまうというニュアンスが「知れる」にはあった、今も昭和人にはある、ということなのだな。

 ので、「知ることができてよかった。嬉しい、感謝」というポジティブな気持ちを伝える文章に、「知れる」という「ネガティブ自発ニュアンス」動詞が使われることに、昭和人は、もやっと違和感を感じてしまう、ということだと分析できるわけである。

 土曜午前中、ヒマジンだったので、言葉おじさんになってみた。もし「いままで考えたことも無かったことが知れてよかった」という方は、イイネをくれると嬉しいです。

追記

これ、もともとはFacebook投稿だったのだが、友人二人から、即座に非常にするどい返信をもらった。

Oくん
「僕は原くんを気心の知れた友人だと思っているのですが。。。」

Yくん
「たかが知れた、もネガティブ。」

Oくんの方の「気心の知れた」はたしかにポジティブ文脈だな。この場合の「知れた」は可能ではないよな。ただの自発ですらない。なんか、現在完了、状態の継続みたいなニュアンスだな。文法的にどういうふうに解説されるのだろう。友人から新しい課題をもらって、なんだか楽しい土曜の午後である。

ちなみにOくんもYくん、広告学校(雑誌広告批評のやっていたコピーライター学校)の同期生で、電通に同期で入社した。二人の学歴は筑波大続駒場から東大法と教養相関社会という、文系最難関の出身である。筑駒の国語の授業というのはどんなだったのだろうな。

さらに追記

 やはり、「気心の知れた」も含め、「大切なことがきちんとした手続きを踏んで、できるようになるという可能」の意味ではなく、「自然にそうなる、なってしまう、なっている」という「なりゆきでそうなる」というニュアンスがあるのだろうなあ。だから、誰かの行為(講演講義をするとか文章を書くという努力や手間をかけた行為)に対して「知れる」という動詞はマッチングが悪い、ということだと、考察の結果、たどり着いた。


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