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タシケント世界柔道選手権を見ながら、柔道における「力」と「技」の関係、その階級による違いを考察する。

はじめに


 文中、一部・敬称略です。柔道家への敬意尊敬はものすごくありますが、「スポーツ技術評論」として書いたので、何卒ご容赦ください。

 ウズベキスタンのタシケントで行われている柔道世界選手権も、今日は男子100㎏以下級、女子78㎏だった。明日の超級、明後日の団体戦を残すところまで来た。

 日本勢は初日二日目の男女金メダル独占から始まって、中量級に進むにつれやや苦戦となり、中重量階級ではメダルなしの階級も増えてきた。

 おそらく、柔道に興味のある人でも、地上波フジテレビの放送(録画放送でしかも深夜、ほぼ日本人の試合だけ)をたまたまちらりと見ているだけだと思う。私のようにFOD配信で一回戦から全試合をもれなく見ているのは、柔道関係者だけだと思うし、そんな物好きなことをしている友人は一人もいないと思う。

全試合を見ての感想

 今日の男子100キロ級、女子78キロ級、外国選手の柔道の内容が素晴らしかった。

 一方、日本選手は男女ともメダルを逃した。

「外国人の柔道は力のJUDO」「日本人の柔道は技の素晴らしさ」みたいな紋切り型の見方が全くの大ウソであることは、今日の試合を見れば明らかである。柔道の神髄のような美しいポルトガル・フォンセカ選手の背負い投げ、飯田健太郎選手を投げたセルビアのドーゼン選手の見事な内また透かし、決勝に進んだカナダのカヨル・レイズ選手は日本で中学から柔道をやっていた(高校時代からときどき見ていた)ので彼は例外としても。女子・優勝したブラジルのアグイア選手の、浜田選手の内股からの返りに合わせた小外、浜田選手を投げて銅メダル、ウクライナのリトヴィネェンコ選手の膝車、どれも教科書に載せたいような美しさだった。これまでの全階級を通じても外国選手の「技」の美しさでいうと今日が一番かもしれない。

力と技について

 階級によっては「力の柔道」が優位な階級もたしかにある。

 そう、今大会を見ていて、前から思っていたことだが改めて考えたのが、「力」と「技」の関係というのが、階級によって違うということである。

 男子でいえば81キロ級というのは歴史的に見ても最も日本人にとって難しい階級である。もうひとつ上、90キロ級という階級もなかなかに難しい。81、90という階級は「力」の要素が前面に出やすい。こうした階級ではジョージアはじめ中央アジア、コーカサス地方の選手が上位を占める傾向が強い。彼らの「技」の技術が低い、ということではない。あの地域伝統の相撲的な伝統格闘技の技が柔道に移植され、「強い力」を前提にして組み上げられた独特の技が効果を発揮する。その組み合わせが日本人の柔道より優位に立ちやすいのである。(昨日今日と、男子はウズベキスタンが金メダルだったが、ウズベキスタンナショナルチーム総監督はギリシャの英雄イリアス・イリヤディス氏である。彼は生まれはグルジアだ。81キロから90キロ級で、オリンピックや世界選手権で日本の小野卓志、西山大希を破って金メダルを何度も取っている。コーカサスから中央アジア系柔道の象徴のような存在である。)

 過去10年ほど、軽量から軽中量級60~73キロ級までは、常に日本国内の代表争いでの二番手三番手まで世界選手権王者が揃って、「代表になれさえすれば誰もが世界で勝てる可能性がある」という層の厚さを保持してきたのに対して、永瀬選手が登場するまでの10年以上、81キロ級は「銅メダルが取れれば大健闘」という時代が続いていた。世界王者を取り、五輪でリオで銅、東京で金メダルを取った永瀬選手はかなり例外的存在なのである

 今回も、81キロ級はその永瀬選手と藤原選手の二選手かエントリーしたが、ともに途中で敗れて、日本人同士の三位決定戦、永瀬選手が勝って銅メダル。外国人に対し二選手で挑んだが銅メダルを一個がやっとだった。

 「81キロ級はなぜ日本人にとって難しいか」ということを考察する中で、「力と技の関係」という視点から柔道という競技の特性について考察していきたい。

話は子供の柔道の話に飛ぶ。

 かつて我が家の子供が通っていた柔道教室で、柔道を教える手伝いをしていたときを思い出しても、はじめは「身体が小さくても大きい相手を投げることができるのが柔道」ということを信じて柔道を始めた子供らも、しばらくすると「結局からだが大きくて力が強いものにはかなわない」「体格はともかく、力は強くないと勝てない」と思い始めてしまう。

 ここが微妙なところで、そう思うあまり、技をかけるときに力を思い切り入れるという、間違った方向に意識が向かってしまう。こうなると技は上達せず、試合にでると負けを繰り返し、挫折してしまうのである。

 たしかに柔道が強くなるには筋力は必要なのだが。しかし、柔道というのは本来「力」で投げる競技ではないのである。

 柔道は、投げる瞬間にものすごく大きな力を出す、という競技では本来ない。普通の人がイメージする、投げる瞬間に「ドエーイ」と気合を入れて、ものすごい馬鹿力を出して相手を投げる、というものでは、本来、無い。

 投げる瞬間には、力を使わなくても、技の作り出す構造(理合いと柔道用語では言う。合理的な技の構造)で、力を入れている感覚が無くても、スポーンと相手を投げることが可能である。むしろ、投げる瞬間に力を抜く、というのが重要だったりする。多くの選手が、本当にうまく技が決まった時は「力をいれる感覚が無く投げている」と語る。

 しかし、いつもこのようにうまくいくかというと、そうではない。

 理想的にうまくいかないときの次善の策として「投げる瞬間に大きな力を出す」ことでも、もちろん、相手を投げることはできる。「力で投げて決まる」という場面も、もちろん実際の試合ではたくさんある。

 こっちの「次善の策」の方を柔道だと思ってしまう子供が多かったのである。

 こう思ってしまうのも仕方ないところはある。柔道には力を使う場面も多いから。

 投げる瞬間以外にも、「力」の要素は、実際の柔道競技では重要である。技が掛かる構造に自分と相手の関係を持っていくための「作り」「崩し」の段階では、力を使う必要もある。技をかける前段階、下ごしらえ段階である。

 また、相手に技をかけられたのを「耐える」「耐えたうえで返し技で投げる」ときにも、力が必要になる。(もちろん、「耐える、返す」にも技術も必要であるが。)

「力を必要としない、むしろ力を抜くことで、するどい切れ味の技を決める」という柔道本来のあり方「技・理合い」の要素と、

その前後「組み手から崩し」や「耐えて返す」という段階での「力」の要素、

 この二つの要素の関係、貢献度の割合が、柔道の体重階級で違う、というのが私の考え、ここで論じたいポイントである。

 軽量階級では「技」の要素がやや優勢である。もちろん「力」も、必要だが、技が優位な場合が多い。

 66キロ級の阿部一二三選手と丸山城志郎選手のライバルを比べれば、阿部選手のほうが明らかに勝っているのは体幹の筋力である。「投げる技術の洗練度」で言えば明らかに丸山選手の方が上である。阿部選手の丸山選手に対する勝ちが、ほぼ「返し技」か「体で押していく大内刈り」であること。丸山選手の勝ちは「内股を見せ技にしての捨て身技」であること。

 阿倍選手ももちろん際立った技術を持ってはいるが、丸山選手との試合で決定的な違いを見せるのは体幹の強さと反射反応の速さである。

 60キロ級の高藤選手や66キロ級の丸山選手、「技術の高さ」でいうと柔道の歴史上でも際立って高い技術をもった選手だが、それでも「出した技が決まらなかったときに、力で返されるリスク・恐怖」と直面しながら柔道をしている。これは東京五輪での高藤選手の金メダルについて書いたnoteでも分析したし、丸山選手が阿部選手に負けるパターンと言うのはこれである。

「技を出す状態を作り出すために、力を使わないと崩しにくい。」「力負けすると技をかけるところまでもっていけない。」「技をうまく出しても、力で耐えられたり返されたりするリスクが高い」

 最高の技術を持った軽量級の高藤選手や丸山選手ですら、力の危険に直面しながら柔道をしている。

 こういう「力の危険」が最も大きくなるのが「81キロ級、90キロ級」だというのが、私の考えである。この2つの階級は「力が優位」になりやすいのである。

 いや、もっと重たい100キロ級や100キロ超級のほうが、もっと力の影響が大きいのでは、と普通は思うかも知れない。

 しかし、そうではないのである。100キロ級まで体重が大きくなると、選手体型として「太りすぎている」か「背が高すぎる」か「筋肉質でも下半身に対して上半身が大きすぎる」という欠点が出てくる。

 柔道は、相手のバランスを崩すことで、小さな力でも豪快に相手を投げる、そういう競技である。

 背が高すぎる、太りすぎているなどの場合、変な話、「自分が安定して立っているために自分の筋力と注意力の大半を使う」必要がでてくるのだ。(女子の78キロ超級で、ときどき本当に立っているだけでやっとというような選手が出てくるのをイメージしてもらうといいと思う。)

 こうした弱点をうまく突ければ、優れた技術で、力ではなく技術でバランスを崩し、見事に投げることが可能になるのだ。

 井上康生氏も鈴木桂治氏ももともと、100キロ級の選手で、その体格で無差別の全日本や世界選手権の無差別でも優勝している。井上康生氏の内股、鈴木桂治氏の足技、その技術の高さがよく効くのが100と100超の世界なのである。

 今夜の100キロ級で外国選手も素晴らしい技がものすごくたくさん出たのも、こういう100キロ級の「技>力」関係転換のせいではないかと思う。

(エビデンスは?データはあるのか?ツっこみが入りそうだが、こういうのは単に「決まり手」分析データだけでは出てきにくく、試合内容や、その「決まり手」の技の具体的内容の質的評価をしないと言えないことだと思うのである。今日のところは「私の感想」である。)

 翻って81キロから90キロという体重階級は、(海外の選手では)アンコ型や背の高すぎる選手は少なく、バランスがとれた上に筋力がすごく強いという身体条件の選手が多い。そうした選手層の分厚い中から勝ち抜いてきたのがこのクラスの海外選手なのだある。怪力とバランスの良さの両立する階級なのだ。

 今大会は出場しなかったが、81キロ級で永瀬選手以来、世界で戦えそうな佐々木健志選手は、技の切れも素晴らしいが、全日本選手権無差別級でも組負けしない「例外的筋力」の持ち主である。

 また、ここ最近、90~100キロ級で世界で成果を上げている、ベイカー茉秋選手、ウルフ・アロン選手、村尾三四郎選手の3人は、いずれも、白人と日本人の組み合わせのご両親を持つ。人種的に筋量や筋出力が多いタイプだと思う。

 白人と日本人の肉体的条件を兼ね備え、かつ幼少期から日本の柔道で鍛え上げた選手の優位という現実が浮き彫りになりつつあると思う。こういうことを書くと「差別か」という指摘もあるかと思うのだが、陸上のサニブラウン選手、テニスの大坂選手、NBAの八村選手、ラグビーの松島選手など、国際化が進んできた21世紀の日本のスポーツ界で広く起きている変化が、柔道界なりの形で自然に結果として表れている。そのことはフラットに事実として認識したうえで、強化や育成の場に強化へのヒントとして取り込んでいくことが大切だと思う。

ここからは余談脱線

 今日は残念な結果になったが、飯田健太郎選手は「柔道界の大谷翔平」っぽいので、頑張ってほしい。パリで金メダル取ったら大人気になると思うぞ。長身でイケメンで、アニメの主人公キャラぽいのである。マンガキャラクター作画家がいるとしたら、大谷翔平選手とNBAの渡辺雄太選手と飯田健太郎選手は、全身のプロポーションと顔のタイプなどが、「同じ作者の作ったキャラ」っぽいのである。ちなみに飯田健太郎選手は、我が家の目の前・徒歩0分にある相模原市立の公立中学校柔道部の出身である。地元の子供としても応援するのである。

脱線余談その2

 丸山城志郎選手には一歳年長の兄、剛毅選手がいる。81キロ級で世界ジュニア王者、日本選抜体重別王者にもなっている。技の多彩さ、駆け引きの上手さ、精神力の強さ何をとっても文句のつけようの無い優れた柔道家である。ここ何年も、国際大会の代表としても毎年いくつかのグランドスラム、グランプリ大会には派遣され、そこそこの成績は残している(2015バクー・グランドスラム銅メダルなど)が、残念ながら世界のトップを争うところまであと一歩である。つまり五輪や世界選手権の代表争いにあと一歩、届かない。その壁を前に。30歳を迎えようとしているのである。

 剛毅選手の「あと一歩」の壁のひとつが、この81キロ級という階級の持つ「力と技のバランスの違い」にあるように思うのである。海外のグランプリ大会などで、怪力選手相手に「技を返される恐怖」が、経験を積むほどに身体や無意識に染み込んで、柔道を難しくしていくのではないか。

 剛毅選手のこの課題と、城志郎選手の『対・阿部一二三連敗』の課題には共通する点があると思う。

 ここまで大人になると兄弟で研究みたいなことはしないのかもしれないが、何とかならないかなあと。お節介ながら思うのである。まあ細かくは書かないが、中学高校時代から本当に応援しているのである。

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