命の選別、若者の人生の時間、超少子高齢化社会の老人介護の問題について。
ここ二日ほど、複雑で微妙な問題について考えては文章を書いているがまとまらない。
れいわ新選組の(前の参院選で公認候補、落選)、大西つねき氏自身のYouTube動画における「命の選別」発言をめぐるツイッター上での事件について。これは相模原障碍者施設大量殺人の植松死刑囚の思想との類似性など、「優生思想」「命の選別」「麻生副総理はじめ、自民党のじいさんの問題発言と全く一緒」として、激しく批判されていて、それはそう批判されるべきひどい発言なのだが。
大西氏は、元・超大手一流外資銀行のエリートで、起業家。「弱者に寄り添う、誰も見捨てない」れいわ新選組の中では、異色の経歴、立場の人で、主に経済政策について発言することが多かった。
知らない人もいると思うので、まずは発言自体を文字起こしした。ニュアンスをわかってもらうために「えーと」みたいなものも、そのまんま。
「高齢者は死んでいいのか。高齢者は、えーと、高齢者は、そもそも死ぬ確率は高いしね。えーと、その話、しましょうか。
どこまで高齢者を長生きさせるのかっていうのを、我々、真剣に考える必要があると思いますよ。あのー、なんでかと言いますと、その、あの、今、介護の分野でも、医療の分野でも、その、これだけその人口の比率が、えー、おかしくなっている状況の中で、あの特に上の方の世代があまりにも多くなっている状況で、その高齢者をちょっと、とにかく長生き(させる)、死なせちゃいけない、長生きさせなきゃいけないという政策を取っていると、これ、多くの、これお金の話じゃなくて、あのう、もちろん医療費とか介護料とか金はすごくかかるんでしょうけれど、これ、若い子供、若者たちの時間の使い方の問題になってきます。どこまでその高齢者を、まあ、ちょっとでも長生きさせるために、子どもたち、若者たちの時間を使うのかっていうことは、あの、真剣に議論する必要があると思う。
まあ、こういう話、多分、政治家は怖くてできないと思うんですよ。まあ、「命の選別するのか」とか言われるでしょ。「命の選別」はしないといけないと思いますよ。はっきりいいますけど。その選択が政治なんですよ。あの、選択しないで、みんなにいいことを言っていても、それ、現実問題として、多分、無理なんですよ。そういったことも含めて、あの、順番として、これ順番として、えーと、その選択するんであれば、えーと、その、もちろん、その、(間があく) 高齢の方から逝ってもらうしかないです。」
これ、最終第三段落は、いろいろと、完全に、アウトだと思う。弁解の余地がない。トリアージ、コロナので医療崩壊しての病院での人工呼吸器をどうするか、みたいな「緊急時・災害時の命の選別」の話と、老人介護のリソース不足の話がごちゃごちゃになっている。こまかく厳密に論じて行けば、本当に選ばざるを得ないときに、どうするかの議論はタブーにせずにしておこう、は正しいのだが、「その選択が政治なんですよ」と言うのは、これは間違い。医療者が現場で判断するときの心理的負担を減らすために、あらかじめ国民的議論をし、緊急非常事態にはそういう場合があることのコンセンサスを形成しておくのが政治の責任。であって、「どの命を救う救わない」を政治が決める、と言ってしまうと、それは、まずい。
ただ、第二段落で指摘している「超少子高齢化社会では、老人介護が若者の人生の時間を完全に食いつぶす、若者の人生や未来を奪う問題になっているのを、どうみんなで考えるか」という問題提起は、これはナチスでも優生思想でもなく、まあ、どちらかというと「現代の姥捨て山」問題であり、移民に頼れば差別問題に行きつき、若者に頼れば若年層の未来を奪う問題に行きつくという難問である。それをタブー視せずに論じましょうという提案は、もうすこし真剣に受け取るべきなのに、「優生思想だ、ナチスだ」と言って議論もしようとしないのは、これはおかしい。というのが、僕の意見。これ、「ヤング・ケアラー問題」として、まず家族家庭での介護問題として、数年前から問題化している。具体例を聞けば、もう少し、イメージが湧くと思う。
2014年のクローズアップ現代。ずいぶん前の話で、正確には覚えていないだが、こんなエピソード。
三世代同居の家族。認知症が進み、介護にひどく手のかかる老人男性、その息子とその妻の、50代の夫婦、高校生の息子という家族構成。夫婦協力して、老人の介護をしていたが、特に母親が体力的にも精神的にも疲れ果ててしまった。心優しい孫、男子高校生は、祖父の介護を、母親に変わって中心になってするようになり、母親もだいぶ楽になった。高校生の孫は、大学受験の勉強も、学校の部活などもあったが、ますます手がかかるようになった祖父の介護と学校生活を両立させて頑張っていた。親孝行、おじいちゃん孝行な素晴らしい高校生。ここまでなら、美談。しかし、そんな、ある日、過労で体調を崩した、孫の高校生が、心筋梗塞を起こし、亡くなってしまった。番組は、「素晴らしい高校生に起きた悲劇」だが、いかにこの高校生がいい子だったか、という話でおしまい、だった。
え、これ、何か、本質的に間違っていないか。というのが、この番組を見ていた時の、私の感想。私が祖父だったら、これ、美談か?嬉しいか?悲劇だろう。私が父親だったら、悲劇だろう。怒っちゃうだろう。誰に対してか分からないが、神様に対して怒っちゃうだろう。
私は当時もう少し若かったので、この話で言うと、「父親」の立場になって「祖父」と「孫」の命を比較して、「祖父の介護のために孫が死ぬ」というのは、決定的に間違っているだろう、と思ったわけです。
私は、「人間は、基本的に動物・生き物」主義です。次世代を残し、次世代に未来を託すことを基本に、生き物は続いていきます。「祖父の介護のために過労で孫が死ぬ」というのは、動物の存続原理として、間違っている。俺が祖父だったら、「わしの介護はいいから、勉強しろよ」とか思うんじゃないかな。とはいえ、じゃあ、自分の介護は?誰か他人に頼る。プロに頼む。公的サービスに頼む。それが、孫と同じような若者だった場合、ん、その若者の人生を奪っていないか?賃金と社会的評価が十分に高い職業になっていれば、いいけれど。そうでなければ、高齢者介護の大きな負担を、人数の少ない若い世代に、低賃金で、社会的評価も低いまま、押し付けていいのか。うーん。「やりがい搾取、やりがい詐欺」になっていないか。このエピソードの孫は「やりがい」本当に感じていたのか。勉強だって恋愛だってやりたいこと我慢して犠牲になっていたんじゃないのか。
「相模原事件の植松と一緒だ」という批判は、ある意味当たっている。世間は植松を「狂人」のように言うが、彼の意見は、彼の中で一貫している。植松は、「意思疎通できない障碍者の命には価値が無い」と言ったのだ。無差別に殺人を行ったのではなく、喋れない障碍者だけを選別して殺害したのだ。これを「他者の命の価値づけ」として考えると、絶対許せない論理なのだが、もちろん。
しかし、これは実は、そういう労働をしている自分もまた価値の無い人間である、価値の無い人生を送っているという、植松側の自己認識の問題になっていて、そのことが論じられることは少ない。植松は職業として選んだんだから、そんなこと考えるべきではない、と建前としては言えるけれど、働いている実感として(彼の感受性が偏っていたり貧しかったりしたせいだろうけれど)、自分の介護労働に対して、反応の無い障碍者(反応を植松が感じることができなかった、ということだと思うが)、その自分の人生の時間、労働している時間に対して、そこに価値を感じられなくなったことが、ねじ曲がった論理として反転して、言葉を話せない障碍者は無価値で殺すべき、という論理になっていった。話せない障碍者を殺すことは社会にとって有益で、社会にとって有益な行為を、常識に逆らっても勇気をもって行う自分は、すごく価値のある人間だ、と理論は展開していったわけ。
いくら介護しても、人間として心が通わない介護労働をしている自分に、自分の人生に価値が無い、という「自分の人生の無価値」という実感と重なって、植松は、そこから飛躍して、誤った方向に論理がどんどん発展していったのだ。
これについては、植松と事件後、彼と何度も会話した奥田知志氏 NPO法人「抱樸」理事長、東八幡キリスト教会牧師が、「彼は時代の子だった」として、この事件の意味について、世の中の人が理解していないとして、YouTubeでインタビューで語っている。(ぜひ下線部クリックすると動画に飛びます。)、見てみて。結論として、もしまったく喋れなくても、意思疎通がまったくできなくても、命には、生きていることには絶対に価値かある。そういう家族を持つことは、苦労やつらいことがあっても、不幸ではない。そう言い切るところからスタートしなければ、植松の提起した問いに、私たち社会は答えていない。と奥田氏は語っている。そこまでの覚悟を、社会全体が持たずに、介護をする人生経験の少ない若者に、そのことに直面させたら、植松のような人間は、今後も繰り返し、生まれてくる。
介護は立派な仕事だから価値がある。だから、介護の仕事をする人は価値がある。それは絶対そうなんだけれど、そういう割に、報酬はひどく低い。社会が、介護者にそれを押し付けている。
報酬の低さだけが問題ではない。保育とか、回復の可能性ある患者さんを見る医療従事者と違って、意思疎通ができない回復の見込みもない障碍者を介護し続ける仕事の中で、植松死刑囚は、より、意味を見出しにくかったのだ。そして、間違った方に行ってしまったのだと思う。このあたりの突き詰めた話は、YouTube動画で奥田氏が語っているので、ぜひ聞いてみてください。
介護や看護される人間に価値があるかないか、という問題についてではなく、「その仕事に価値が感じられない自分、評価してくれない社会」という自己認識の問題が、介護される存在を無価値と考える思想につながる、というこの問題。
老人介護では、この問題は少し違う要素をはらんでいる。老人介護施設で、ときどき起きる、介護者による老人虐待の事件。
老人介護や老人医療の現場ではこういう問題がある。老化によって脳のある部分の機能が低下して、乱暴になったり急に怒り出したり、スケベセクハラしかしなくなったりする人という人はいっぱいいる。本人の人格の問題ではない。それまですごく人格者でも、老化で、どんどん、そうなる人がいる。老化だから、ひどくなる一方で、よくなることは、まず無い。
介護、看護をする人は、専門教育の中で、それは老化による変化なのだ、と分かっていても、それでも、人間だから、毎日毎日、ひどいことを言われ続ければ、傷ついたり嫌だったり腹が立ったりする場合もある。それを飲み込みながら、介護や医療の現場の人は働いている。それと折り合いがうまくつけられる適性というか耐性というかが、高い人と低い人は、どうしたっている。
超少子高齢化で世代間の人口がアンバランスな日本では、適性・耐性の低い人まで介護の仕事をしなければいけない状況になる。それは、介護をする方される方、両方にとって悲劇だ。プロでさえそうだから、介護家族だけに押し付けられた場合も、悲劇が起きる。
ややこしい話になったけれど、まず、自分の家族の話として、自分に高齢の父母と、高校生大学生くらいの息子娘がいるとして。息子や娘の人生を、高齢の祖父母の介護だけに使え、とは言わないんじゃない?僕ら世代も、祖父母世代も、自分の孫に「あんたの人生は、まずは祖父母、次は僕ら父母の介護をするためだけにあるんだよ」と、わが子には言わないと思う。自分のやりたい仕事について、恋愛だったり結婚だったり、いろいろいな社会活動だったり、趣味だったりを楽しみなさい。それができる収入が得られる職業に就きなさい。そのために、できるだけ高い教育を受けなさい。応援するよ、と言うと思うなあ。
息子娘が「自分は人のためになることが好きだから、介護職に就きたい」と言ったら、それなら、そのプロになるようにがんばりなさい、と応援するとは思うけれど。
祖父母父母の介護のために、勉強も進学もあきらめ就職もあきらめ健康を損ねて恋愛も結婚もできず祖父母よりも早く死んでもいい、なんて思う祖父母も父母もいないはず。
自分の息子娘に絶対望まない未来を、どこか他人の若者や、どこか外国から連れてきた若者に負わせるような社会の仕組みっていうのは、どうなんだろう。それは根本的に間違っているんじゃないのかしら。大西氏の問題提起は、そういう問題を含んでいたのであって、「ナチス」とか「優生思想」っていうのとは違うと思うんだけどな。
だからといって大西氏のように「老人が先に逝け」っていうのは、言ってはいかんように思うが。じゃあどうするんだよ。というようなことを、ここ数日、書いては消して、うまく書けずに考えている。