今夜(2022/10/22)西村ケントくんのライブの配信を楽しみにしつつ、「耳コピアレンジ」について、あれこれ書いてみた。(藤井風くんとの、二人の天才の共通のアプローチと能力について。)
今夜10/22の18時から天才・西村ケントくんのライブが京都であって、その配信がTwicasで視聴できます。2000円、有料ですが。
つい最近、藤井風くんの新曲「grace」発表⇒ガンバスタジアムでのライブ⇒ライブで「grace」演奏のときに「スマホで撮っていいよ、snsで投稿していいよ」と風君から許可となったので、YouTubeやその他sns上に風くん「grace」のいろんな人がとった無数の動画が、ということがあった。
自宅引きこもっていても、いろいろ楽しみはある。良い時代である。
それはさておき。
ケントくんと風くんという二人の天才について考えると、「耳コピアレンジ」ということの大事さ、ということに思い至る。
「耳コピアレンジ」とは何か。当然「耳コピ」⇒「アレンジ」なのであるが、順を追って説明していこう。
「耳コピ」というのは、昔のギター小僧が、楽譜もタブ譜も演奏映像も何もない、ただレコードやエアチェックしたカセットテープの音だけを繰り返し繰り返し聞いて、「どう弾いているか」を考えて、「そっくりに弾けるようになる」こと。
あのCharは、中学3年間、エリッククラプトンの名曲名演「クロスロード」一曲だけをひたすら耳コピした、という逸話がある。
バンド全体の音の中からギターの音だけを聞き取り、こうかな、こうかな、といろいろと試行錯誤する。ギターという楽器の難しい所は、同じ音の高さ、同じ和音でも違う弦の違うポジションで何か所か音が出せてしまうことがある。それを響きの感じとか、前後のつながりと運指のしやすさとか、「ここでこうやって弾いているのかな」と想像したりするのである。
ピアノもそうだと思う。ピアノの場合はそのコードをどの展開でどう弾いているかを正しく聞き分けないといけないのが難しいと思うのだよな。「このコードだ」というのは聞いたらすぐ分かっても、どこの内声を弾いて、何は弾いていないかとかいうあたりを正確に耳コピするのは難しそうだな、これはよくわからんけどピアノ弾けないので。
Charが3年も一曲を耳コピ続けたのも、「できた」と思ってしばらく弾いていても「いやここでこう弾いているのではないか」という別のアイデアや、「ここのこの響きは、やっぱりこういうコードだったんじゃないか」とか、微妙な違いがやればやるほど出てくるからなのである。
アルフィーのアコギ担当坂崎氏は、ビートルズから海外のフォークソングから日本のフォークソング迄、「耳コピ」の鬼である。あの曲は、こうやって弾いていると思っていたが、やっぱりこう弾いているんじゃないか、みたいなことを、ギタリスト仲間と延々といくらでも話し続ける。(演奏動画というものがほぼ皆無だった時代の人は、プロもアマチュアも耳コピをして育ったのである。)
ここまでが「耳コピ」だが、それに「アレンジ」がくっつくというのはどういうことかを説明していこう。
これは藤井風君アマチュア時代の大量のYouTube動画、国内外名曲を自宅のピアノやキーボードで(ある年齢まではピアノ・インスト・歌無しで、ある年齢以降は歌アリで)演奏している大量のYouTube動画を見ればわかるように、「本来、バンドやオーケストラなど多様多数の楽器で弾かれている原曲を、ピアノ一本の上でどう弾くか」ということをすることが「アレンジ」なわけだ。
西村ケントくんも同様。フルのバンドなど複数楽器で演奏されている楽器を、ギター一本で、出来る限り再現する、その再現度の異常な高さが西村ケントくんを、唯一無二、孤高の存在にしているのである。
で、この最終的な「ピアノ一台」または「 ギター一本」のアレンジに行く前の、「耳コピ」の精度の異常な高さというのが、風君とケントくんの異常な能力、二人の共通の特徴なのだよな。原曲で魅力的な、あそこの響き、あの感じ。それを作り出しているのがどういう和音と各楽器の特徴的響きなのか。それをおそるべき精度で捉えているのだよな。
2人とも、「この曲、いいな」と思った瞬間に、ケントくんなんかはインタビューで答えているが、「どういうチューニングにしてどういう風に弾くかは、思った瞬間にだいたいもう出来ている」。
風君もそうなんだと思う。いいな、弾いてみようと思った瞬間に、考えるまでもなくほぼ出来ているのだと思う。コードの展開、ベースラインの流れ、特徴的なリフや、印象的に入るいくつかの楽器、そういうものが全体として「ピアノで弾くとき、こう表現しよう」というのは、考えなくても手が動く、ということになっているのだと思う。
こういう話を書くとすぐに「絶対音感がある」と言い出す「絶対音感崇拝薄らバカ」が湧いて出てくるのだが、絶対音感と言うのはそういう話ではない。絶対音感て何か、どういう能力でどういう限界や弊害があるか、wikiでも調べてみてね。「絶対音感」を二人が持っているかどうかは分からないし、そこには収まらない底知れぬ能力が2人にはある。そのことを「絶対音感がある」という粗雑な言葉で概念で説明できると思うのが「うすらバカ」なのである。
で、風君もケントくんも面白いのが、これはCharの「クロスロード」のエピソードと似ているのだけれど、いいなと思って瞬間的にこう弾くということが(楽譜やタブ譜などというものをすっ飛ばして)、演奏する自分の身体動作イメージとして、分かってしまう、にも関わらず、「細部」については、後々まで修正を繰り返すことが結構あるのだよね。
風君について言えば、エド・シーランの「Shape Of You のコード進行を変えたよ」という動画があって、前にアップしたのとコードを変えてみたわけで、これは「原曲に対して正しいかどうか」というより、「こう弾いたほうがおしゃれじゃね」的な変更かもしれないなあと思うわけだ。
ケントくんについてはマイケルの「スリラー」とプリンスの「パープルレイン」の二曲は、各二本、別の動画を上げていて進化しているし、ライブ配信を何度か見たが、いろんな曲で演奏前に「YouTubeの動画から進化した部分もあるのでそこにも注目してください」と言って演奏することがある。
「瞬間でイメージできるけれど、こだわって進化させることは延々と続く」というのが「耳コピアレンジ」の面白い所なのだ。
ケントくんも風君も、パーカッションやドラムの打楽器的な音を、ギターで、ピアノで、どう入れるかについて、ものすごく多彩な奏法工夫を入れてくるのも共通の特徴だと思うのだが、これも「耳で聞こえて分かっていて、この曲を魅力的にするには、こういうパーカッションやドラムは入れたい、それをどう入れるか」、風君で言えば、クラップ、ピアノを弾きながら手を叩いたり太ももを叩いたり、ピアノを叩いたり、ものすごく強く打鍵することで、弦ではなくキーボード自体をカタカタと鳴らしたり、そういうことをすごく魅力的に行う。
ケントくんで言えば、まだ高校一年のときのアルバムで、ステーリー・ダンのajaの、スティーブガッドのドラムソロを、ギターを叩くことで、他の楽器パートと同時に行うという狂気の神技を見せてくれている。天才としか言いようがない。
この二人、こういう「耳コピアレンジ」という行為をするにあたって、おそらく、「楽譜」とか「タブ譜」には縁がない、それをすっ飛ばしてやっていると思う。「耳コピアレンジ」のプロセスで、楽器から手を離して楽譜やタブ譜に行くというのは邪魔だし無駄だし、絶対やらないと思うのだよな。
「聞いて把握したその楽曲の全体」⇒「それをピアノまたはギターで再現する演奏、身体動作のイメージ」というのが、ほぼ直結していると思う。「聞く」→「弾く」、合ってる99%できてる。でも別の工夫もちょっとしてみる「聞く」⇒「工夫入れて弾く」、あ、もっといい。みたいなことをしているのだと思う。
ということは二人のやっていることを見れば、聞けば一目瞭然なのに、ケントくんのYouTubeコメント欄には「TAB Please」「タブ譜はあるのか」というコメントが必ず付くのである。すっ飛ばして演奏になるケントくんにとって、そのタブ譜を作るのは時間の無駄でしかないということが、どうしてわからないかなあ。新動画をアップした時点でタブ譜があるわけないじゃん。バカなのか。ケントくんには、タブ譜を作る時間があったら、新しい曲、新しい演奏づくりをしてもらったほうがずっといいに決まっているとわからないのだろうか。バカなのか。
ケントくんの演奏をタブ譜にした本は一冊出版されているが、これは「耳コピしてタブ譜化するプロ」が採譜したものを、ケントくんがチェックするという形で作られた本である。
いろいろ脱線したが、今夜のケントくんのライブ、YouTubeで繰り返し聞いた曲も、その進化した新アレンジになっている曲も多いと思うのだよな。楽しみである。
ちなみに、レベルは月とスッポンのスッポンの方だが、僕のギターの楽しみ方も「耳コピアレンジ」である。原曲(バンド全体、鳴っている音全体)を、ギター一本に聞こえたままに変換して演奏していく。何年も弾いていても「やっぱりここ、こうかな」と直していく。それが楽しいのである。