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三島由紀夫『仮面の告白』問題を、太宰治と藤井風くん「死ぬのがいいわ」という超モテ男との対比で考察する。

 三島由紀夫 没後五十年の憂国忌を迎えるので、関連の記事、評論などが出始めている。朝日新聞も、21日の書評欄の島田雅彦氏「三島と戦後の日本」、22日の文化文芸欄「没後50年 最新論考で迫る」(太田啓之氏 署名記事)と、連日、大きな紙面を割いて掲載された。

 とはいえ、50年も経つと、三島について、名前や死に方は知っていても、小説のひとつふたつは読んだことがあっても、それ以上の知識はない人が多くなっているとの認識からだろう、どちらの記事も、概括的な生涯のまとめ、その意味の、現在、語られる論点を漏れなくそつなくまとめた以上の内容ではなかった。それは、新聞に載る論評である以上、仕方ないことだろう。

 私は、今からもう35年も前のことだが、東京大学文学部国文学科の劣等生として、三島由紀夫の『美しい星』を論じる卒論を書いて卒業した。

 ほとんど大学に行かない不真面目な学生で、卒論も、きわめていい加減なものだったので、今、卒論は行方不明になっていて、それは私の心の平安にとってとても良い。もし、今。あんなもの読んだら恥ずかしくて即死しそうな代物だった、という記憶はある。

 とはいえ、私にとって三島由紀夫が極めて重要な作家で、様々な意味で、私の人生の、政治的文学的思索の中心に、いつも三島があったのは事実だ。

 卒論も、出来が酷かったことは事実だが、そこで論じようとした問題点は、いまだ私の頭の中から離れたことは無い。

三島については、いくつか、重なり合いつつも重心の異なる課題論点が私の頭の中には存在する。

 ひとつは、『美しい星』論で論じようとした、三島にとって美的体験とは何か問題。

 三島作品においては、主人公が、究極の美を見る、という体験が繰り返し描かれる。『美しい星』においても、主人公一家が空飛ぶ円盤を見る、というのは、(特に、長女 暁子が金沢で円盤を見る体験は)、究極の美を見る体験として描かれている。

 卒論のテーマは、三島作品に現れる、主人公が究極の美を見る体験、『金閣寺』でもそう、『鏡子の家』でもそう(画家、山形夏雄が龍を見る体験)、それらの意味を考察するものだ。心理学的にいう「乖離体験」のような、コリン・ウィルソンが『至高体験』で論じているような、そのような体験が繰り返し描かれる。

 そもそも、文学における「美」とは何か。文章が美しいことか。美しいものを描くことか。汚く醜いものを美文で描写したら、それは文学の美なのか。美を分析的に叙述したらそれは美なのか。三島由紀夫の文学が美しいというのは、どういうことなのか。三島由紀夫にとって美とはどういうことなのか。

 文学における「美」と、三島が繰り返し描こうとする「美を見る」という体験の関係を、なんとか解明しようというのが、卒論のテーマだったのだが、もちろん、うまくできずにグタグタになって、なんとか規定枚数の原稿用紙を埋めて、期限ギリギリに提出するのがやっとだった覚えがある。

 三島は果たして、実人生で「究極の美」を見る体験をしたのか。体験したから、それを描こうとしたのか。それとも、実人生では、ついぞそれを見ることが叶わなかったのか。叶わなかったからこそ、小説の中に、作り物として、繰り返し、それを描こうとしたのか。

 という、「三島文学における美」「小説内において描かれる美的体験」「三島の人生に、美的体験はあったのか」という問題が、まずは私の中にある。

 これとは異なる意味合いの重要な課題がある。加藤典洋氏が繰り返し論じる、戦前と戦後のねじれ、それをいちばん敏感に感じ、自らの人生の中でそのねじれを生きた存在としての三島、という問題である。


 三島は、大正15年生まれ、つまり、昭和年号と同一の年齢である。終戦時には20歳。同年齢の若者の多くが戦地で亡くなった。学生も学徒動員で、亡くなった。
 三島は、徴兵検査を、親の配慮で親の生地の農村で受け、うまいこと、徴兵を忌避した。(虚弱な体をことさら強調するために、頑健な農村の青年が集まる父郷里の村で徴兵検査をわざわざ受け、米俵を全く持ち上げることができない虚弱さゆえに第二乙種合格、そのうえ招集時にたまたま発熱たために、肺浸潤と誤診され、戦地に行くことを免れたのである。)三島は、内地で、兵役に就くことなく、終戦を迎える。結果、同年代の若者の死に対する後ろめたさを抱えて、戦後を生きることになる。そのことが、後年の、政治活動の基底にあることは疑いない。

 そして、それと部分的に重なって、より大きな政治状況についての、三島の関心についての課題が存在する。天皇に何を求めたかということと、米国に従属し、物質文明の空虚な繁栄にまい進した戦後の日本の在り方。精神の空虚について。これもまた、加藤典洋氏が繰り返し論じ、(それは加藤氏の憲法論とも重なっていくのだが、)


 私が加藤典洋氏の仕事に対し「勝手に弟子になったつもり」なのも、この点についての関心の共通点からなのである。戦前と戦後の日本、天皇と憲法をめぐる問題、それが三島由紀夫という個人の生涯と作品、文学を結び目として、固く、こんがらがっていること。加藤氏ほど、そのことについて深く考え、理解し、文章にした人はいないと思うからである。

 さて、こうした政治と文学の結び目問題とは、また違った関心と問題点として、性と恋愛の問題がある。今日、これから本格的に論じようとするのは、この問題である。(注 性と暴力を、政治の結びつきで考える」問題というのも存在するが(小説『憂国』問題)、今日、論じようというのは、それでもない。)

 三島由紀夫という小説家の実人生は、戦後の文学と政治・社会の接点に存在し、いくつもの、リアルな暴力、血を招き入れた。がゆえに、「三島のことを不真面目に語ってはいけない、」という空気が形成されて、長くたつ。三島について語ることがある種の緊張を強いる、真面目であらねばならぬ、という圧力を、リアルに生じさせ続けているのである。

「不謹慎なかんじで三島を論じてはいけない」圧力である。しかし、そのために、三島由紀夫の真実が、どんどん、死後50年を経て、美化されたり、偏ったりしていくことも、あるんじゃないか。そこのところ、ちょっと注意した方がいいぞ、と思うのである。本稿を書いていることの意図は、その辺にある。三島由紀夫については、他にもいろいろ書きたいテーマはあるが、今日、あえてこれを書くのは、そういう意図である。

 これから、だんだん今日の本題に入っていくのであるが、それは歴史的文脈として語りにくいだけでなく、いまどきの、性的多様性についてのポリティカルコレクトネスの強まりの中でも、なかなかに語りにくい問題である。三島が同性愛者であったという問題も、事実が様々不明な中で、LGBTの方への配慮がきちんとできるかどうか、私としての最大限の配慮・注意はするものの、そのことで論旨が不明確にならないように書いた。もし、不適切な部分、表現があったら、ぜひともご指摘ください。

さて、すごく長い前置き、やっと終わり。ここから本題。

 三島由紀夫という人は出世作『仮面の告白』で、自分が男性にしか性的興奮を覚えない、同性愛の傾向を持つことを、告白した。とされている。そういう、当時としては画期的な告白小説として、センセーションを巻き起こした。それ以来、三島由紀夫は、自分が同性愛者であるということを隠さず、『禁色』という、そのことをテーマとした長編も発表している。ということになっている。日本的私小説の伝統が、ここにひとつの混乱を起こしていて、三島由紀夫が、同性愛者だというのは、どの地点から、行為的側面として事実になったのか。そういう心的傾向を自覚したのはいつなのか。『仮面の告白』時点で、それは、リアル生活、現実の三島由紀夫にとっての事実なのか。単なる小説上のフィクションじゃなかったのか。小説でそう書いちゃったから、そういう演技を演じ続けなければならなくなっちゃったんじゃないか。

 実人生をたどれば、三島は、杉山瑤子と結婚し、紀子、威一郎の一男一女を儲けている。そういうことである。女性とも、できる人だった。

 一方、各種証言や、自決事件での司法解剖調書などからも、三島由紀夫が同性愛行為を行う人であることは公然の事実である。

 夫婦生活以外にも、女性との恋愛も性交渉も、普通に持っていたことは知られている。三島には『音楽』という、不感症の女性を主人公とする小説があるが、これの執筆前後、交際していた女性をオルガスムスに導けたかどうかを、友人に報告したり自慢したりしていた、ということが、その友人自身が語っている。まだ若い時期の作品で、まだ性的経験が少ない若者が、性的経験の成果を無邪気に友人に自慢する様子が報告されている。

 つまり、三島由紀夫は、記事、文献などを通して、男性とも、女性とも性行為を行える、(行動面の事実で言えば、)バイセクシャルであったことは、研究者の間ではすでに定説である。

 そして、ここからが本題中の本題、事実ではなく、あくまで、大胆な仮説として、読んでほしいのだが、僕個人の単なる妄想、というわけでもない。猪瀬直樹氏の『ペルソナ 三島由紀夫評伝』も、同じような立場を取っていた記憶がある。三島と同時代の作家仲間たち、先輩、後輩の証言として、私が今日、これから論じようというのと同様な発言をした人が多数いる。

 三島の同性愛と言うのは、「三島にとっての蟹と一緒」という発言である。三島は甲殻類が苦手だった。苦手であるとわかっていて、あえて、食べようとした。平気を気取る、強がる、そのことで自分の優位を誇ろうとするところがあった、というような発言だ。

 私は、三島由紀夫が、行為の事実として、同性愛者だったことは、事実として認めるし、後年、事実、同性愛者としての自分を好ましいと思っていたのも事実だと思う。

 しかし、『仮面の告白』における、同性愛の告白というのは、あの時点では、つくりものだったのではないか、文学的虚構と、実人生における失恋の(もちろん異性への)痛手をごまかし自己正当化するための虚勢だったのではないか、というのが、ここで提示する仮説である。

 いや、それ以上に、「(異性に)もてない男、三島由紀夫」というものを克服し、虚勢を張る一生として、三島由紀夫について、考察を進めて行こうと思う。

 おそらく、この憂国記50回目を機に、三島由紀夫を真面目に深刻に語る論説が世にあふれるだろうから。そんなものを私が書いたとしても、何の意味も無かろう。文学的天才としても、戦後の日本政治のねじれを一身に体現した存在としても、私は、他の誰よりも理解しようとし、尊敬、崇拝さえしている。が、そのことは、私が語るまでもない。

 貧弱な肉体を抱え、運動音痴で、異性にもてたことがない惨めな文学的天才、「(異性に)もてない男、それを意志の力で克服しようとした男」三島由紀夫、ということについて、ここから、しばらく、書いてみようと思う。おつきあい、お願いします。

 石原慎太郎は、三島由紀夫のことを、バカにする文章をずいぶん書いている。長身で、金持ちで、湘南の海で女と遊びまわった生活を書いた小説で芥川賞を得た石原慎太郎。三島がボクシングや空手に励むことを評して、三島さんは運動神経が全くなく、ボクシングをしても、フットワークが全然できず、リズム感もなく、滑稽な動きしかできない、運動音痴が大人になってからあんなことをするのは、「手順錯誤」だ。若い時にできなかったことを大人になってやり直そうとすることは、無駄なことだ。三島の人生は手順錯誤に満ち満ちている。と石原慎太郎は、三島をからかうように批判する。体格容姿にも、運動神経にも恵まれた石原から見た、蔑みである。

 もうひとつ、三島由紀夫は、太宰治への憎悪をよく口にした。それは、ある種の「近親憎悪」だと、三島自身は自己分析するが、そうだろうか。私も、つい最近まで、三島の言葉を信じて、そう思っていた。

 その点について、思い直すきっかけになったのは、突拍子もない話だが、今年、すい星のように現れた天才ミュージシャン、藤井風くんだ。その容姿端麗なこと、現実の人間とも思えない。彼はYouTubeへの投稿動画(ピアノ演奏や歌唱)で、注目され、今年、メジャーデビューを果たした。アマチュア時代からの、彼の動画での姿に、一瞬で恋におちる女性、若い女性だけでなく、老齢女性までもが、もう、一瞬で、恋に落ちるのである。女性だけではない、男性でも、「私、男なんですが、恋に落ちました」「男だけど、結婚してほしい。抱かれたい」という声が、多数、寄せられている。実は、私も、藤井風君に恋に落ちた一人だ。四六時中、彼の動画を見ている。彼についての、どんな些細な情報も逃したくないと走り回る。娘からは「おっさん、それは、恋だぞ」とバカにされている。

 その風君の容姿、「太宰治の生まれ変わりか」「太宰治が現代にピアニスト、歌手として転生したのか」というコメントが多数あるくらい、面影が太宰治に似ている。

 もうひとつ、藤井風くんには「死ぬのがいいわ」という曲がある。あんたと別れるくらいなら死ぬのがいいわ。という狂おしいほどの恋心、愛する人への執着を歌った歌だ。まるで、太宰治と自死した女たちの気持ちを歌ったようだ、と私は感じた。あんたと別れるくらいなら死ぬのがいいわ。出会った女に、相手の境遇がどうであれ、一瞬でそう思わせるようなモテ男としての魔力が、太宰治には、あったのだなあ。それは、風君の姿に、女性が、もれなく、一瞬で沼に落ちるように恋に落ちる現象を見て、初めて実感されたものだった。

 三島由紀夫が、女性にもてなかった、わけではないと思う。幼いころから「天才文学少年」だと言われ、そういうことに興味を示す女性の中には、三島を好いてくれる女性もいただろう。成人してからも、「天才文学者」「繊細な少年、青年作家」という存在として、もてないことは無かっただろう。

 しかし、太宰治が、藤井風君のように、もう、一目で、一言で、太宰が何者であるか何も知らない無学な飲み屋の女給であったとしても、恋に落ちてしまう。この人となら死んでもいいと思う。本当に死んじゃう。そういう風に、女性にモテたことは、三島由紀夫には、無かったのではないかと思う

 そもそも、『仮面の告白』を書く以前に、三島に、リアルな大恋愛、などというものは無かったようである。直前にあったのは、さる、上流階級の令嬢と見合いをし、断られる、という体験である。天才青年小説家かつ、東大を出て大蔵省に入った、圧倒的秀才。しかし、貧弱な体で、運動神経もなく、青白い顔をした、ひ弱そうな小男。顔の容貌は、ご存じのとおりの、まずまずの美青年であったとはいえ、太宰治が、藤井風が、全身から発する色気、魅力、理由も分からず女性を恋の泥沼の底まで引きずりおろすようなモテ男の魅力・魔力などというものとは縁遠い。それが三島由紀夫だったのだと思う。お見合い相手からも、いかに大蔵省の東大出のエリートと言われても、天才文学者と言われても、結婚相手として魅力的とは思ってもらえなかった。というのが、『仮面の告白』を執筆する直前に三島が体験したことである。

 この体験での、自尊心の傷を、そのまま、「モテないひ弱なエリートがふられた話」として、小説にすることを、三島の自尊心は、許さなかった。それを、私小説を擬態した、自己正当化のフィクションとするならば、自分がモテないが故に振られたのではなく、自分が同性愛者であったがゆえに、自分が彼女を愛せる能力を持たなかったゆえに、彼女がそのことに鋭敏に感じて、私を選ばなかったのである。こういうフィクションとして小説を書くことで、実生活での挫折を、創作の原動力として転化した。それが『仮面の告白』の誕生の際に起きた化学反応だったのではないか。これはあくまで私の、勝手な推論。なんの証拠もないが。

 日本の文学界には長く「私小説」の伝統があるために、『仮面の告白』における、同性愛の告白は、そのまま、三島自身の、勇気ある告白と受け取られた。そのセンセーション、衝撃もあり、仮面の告白は大ヒットする。三島は、お見合いで振られた傷を、文学的成功に転換することに、錬金術に、見事に成功した。それと引き換えに、三島由紀夫は、同性愛者である「かもしれない」という自己を、それ以降、演技し続ける人生を生きたのではないか。

 三島由紀夫が同性愛者である、ということから、そちらの世界の人からのアプローチも様々あり、そういう友人も増え、事実、そういう行為の世界に、次第に入っていった。入っていって、嫌ではない。と思ったかもしれない。いやでは無いどころが、事実、自分の中に、そういうことを愛好する傾向がある、と自覚していったかもしれない。後年の三島が、バイセクシャルであり、同性愛者であったことは間違いない。が、そのスタートは、こんな事情だったのではないか。私は、そう思うのである。

 もうひとつ、当時の世界の文学者のかなり多くが同性愛者であることを明らかにし、そういう文学を書いていたこと。日本の古典にも、ギリシャの古典にも、同性愛はごく自然に描かれており、文化的教養人として、同性愛者であることは、誇るべきことであるという認識が三島にはあったのではないだろうか。

 ちょっと話がズレるけれど、例えば、ローリングストーンズのミックジャガーとデヴィッド・ボウイの同性愛的関係はよく知られているが、両者ともバイセクシャルで、女も大好きだけれど、男ともするよ、相手が魅力的ならね、という態度は、文化人・アーティストとして「かっこいいこと」という価値観があったわけだ。

 現代の、自然なこととして、自分が同性愛者だったり、自己の性別認識が生物学的それとズレていたりするLGBTの問題がある。それを社会が差別しないよう変わっていくべき、という文脈でのLGBT問題。これは、フレディ・マーキュリー問題と名付けることができると思う。

 それとは少し違う、「アーティストな俺、バイセクシャル、かっけー」的価値観と言うのが、ミックジャガー、デヴィッドボウイにはある。それは、現代的LGBT問題の先駆け象徴としての、(映画ボヘミアン・ラプソディでも描かれた)フレディ・マーキュリーとは、ちょいと違うニュアンスがあったと思う。

 三島由紀夫の同性愛告白と、バイセクシャルな私生活というのは、フレディ・マーキュリー的問題と言うよりも、ミックジャガー・デヴィッド・ボウイ的問題だ、というのが、僕の個人的解釈なのである。

 話が戻って、三島由紀夫の「肉体へのコンプレックス」という問題は、「貧弱さ」の問題として語られがちだけれど、それだけではなく、「決定的に運動神経もなかった」「いけてない、異性にもてない」問題として語られることは無い。でも、本当は、そうなんだと思う。

 今どきのテレビの、アメトークや芸人バラエティでの「いけてなかった俺」「運動音痴芸人」並みに、三島由紀夫は、カラダが貧弱だっただけでなく、運動もできない。逆上がりもできない、懸垂もできない。大人になってボクシングをやっても、滑稽なくらいリズム感もない。そういう人間だったのである。壮年期の、たくましい肉体で、空手をしたり、剣道をしたり、自衛隊体験入隊で、若者と厳しい訓練をしていたりする映像が、これからの時期、多く、流れると思うが、それは、「モテない、イケてない、運動音痴の俺」を克服する涙ぐましい努力の上に、30歳を過ぎてから貼り付けた「全身・仮面」であった。

 「同性愛者だから、婚約者に振られても、そんなのは俺がモテないせいではない」と自己正当化した『仮面の告白』からの虚勢を、一生、はり続けた。同性愛の虚勢は、はっているうちに、本当に、そっちが好きになったのかもしれない。仮面が、素面に変化したかもしれない。でも若い時は、普通に女にもてることにも熱心だった姿が報告されている。そういう人だったんじゃないかしら。

 三島由紀夫は、太宰治のような、(藤井風のような)、ナチュラル・モテ男、つきあった女に「死んでもいいわ」と言わせることは、一生に一度もできなかった。そのコンプレックスを、政治や、肉体改造や、同性愛や、文学的名声や、そういうものに挑戦する原動力にした。意志の力で、努力で、そういうことを、全部克服しようとした。そういう人だったんだと、僕は個人的には思っている。あくまで全部、僕の仮説ですが。でも、だからこそ、三島由紀夫のことを尊敬するし、好きなのである。

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