夏の終わりに聞きたくなるのは、フジファブリックだと僕は「茜色の夕日」のほうなんだな。
つらつらと思うことなど書いてみる。
夏の終わりになると聴きたくなる名曲、というのがある。フジファブリックの「若者のすべて」はそういう曲の代表格だと思う。が、それももちろん大好きなのだが、フジファブリックだと僕は「茜色の夕日」のほうがもっと好きだ。
「若者のすべて」は、青春の、若者が感じる夏の終わりを、永遠の瑞々しさのなかに描いた名作なわけだが、
「茜色の夕日」のほうは、もう少しだけ大人になって上京しての、その青春の「瑞々しさ」の時間と場所から少し離れてしまった、大人になりかけの平凡で冴えない東京の毎日の中で感じるいろいろを歌っている。
この歌の主人公が夏の終わりに感じることは
(以下、「」内、歌詞引用)
そしてこの歌の、僕にとっていちばん心に響く歌詞は
私の妻のことを知っている昔からの友人は、私の妻の目がけっして大きくはないことを知っていると思う。昔、若い頃は完全な一重瞼だったのが、歳を取ったらなぜか今はキレイな二重瞼に自然になって、昔より少し目が大きくなった。でも、まあ少女マンガのように大きな目ではない。小さな目だ。
普通、歌の歌詞に出てくる女性の目はつぶらな大きな瞳で、涙はそこからこぼれ落ちるものだし、そのとき女性の肩は細くて頼りなげに震えていたりするものだ。肩はこの歌には関係ないが。昔の友人たちご存じの通り、妻の肩は丸々ふくふくとしている。
小さな目だったり、ふくよかで丸々とした肩、というのは歌の歌詞の登場人物にはなりにくい。普通は。
でも、目が小さくても、ふくよかな肩でも、どうしようもない悲しいことはあるし、大粒の涙が溢れてくることはあるし、悲しみで肩を震わせることはある。(いや、歌詞の女の子は肩を震わせてもいない。ただ横で静かに笑っていた彼女の小さな目から、急に涙が溢れてきてすごくびっくりしたんだろうな。)
大粒の涙が溢れてきた彼女に、歌の主人公は、僕は何もかっこいいことが言えなかったし何もできなかったのだよな。
そんなことを思い出してしまうのだ。
なんで取り返しのつかないことをやってしまったときに「しまった」っていうのかなあといえばそれは「やってしまった」の短縮形なのだな。
しまった、ということを思い出してしまうのだ。
無責任でいいなラララ。
茜色の夕日の後、もう少し暮れた東京の夜空に星は、見えないことはない。僕は東京の生まれ育ちなので田舎から上京した人のように田舎の満天の星空との落差でここの歌詞を理解することはないけれど、よく晴れた東京の真冬の空と比べても、そして近視で目の悪い僕には夏の終わりの東京の夜空の星は「見えないこともない」くらいの星空なのである。
(作詞 志村正彦「茜色の夕日」)