『サンクチュアリ』(新潮文庫)フォークナー(著)加島祥造(訳) 酔っ払い若いバカップルが犯罪者巣窟に迷い込んでという今のアメリカンB級映画の元祖みたいな導入から、後半はヒューマン裁判ドラマみたいになるかと思いきや、やっぱりフォークナーな暴力爆発する。代表作じゃあないな。問題作である。
サンクチュアリ(新潮文庫)フォークナー(著)加島祥造(訳)
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ここから僕の感想
フォークナーをとりあえず手に入る文庫や単行本で読み継いで、残っていたこれを読んだ。新潮文庫ではこれと『八月の光』と『フォークナー短篇集』しかないので、たしか学生時代に買った記憶があるのだが、見つからないので買い直した。
話はちょっとズレるが、僕の高校生かから大学生時代(今から40年以上前)、各社文庫のイメージで言うと、なんといっても文学といえば、新潮文庫が王道。岩波文庫は古くさい古典と哲学とかそういうのを読むとき。と漠然と思っていたの。講談社文庫とか中公文庫はかなりマイナーな感じで、角川は娯楽小説中心、早川はSFと推理サスペンスしかない、みたいに思っていた。本屋ではとにかく新潮文庫の棚の前をうろうろしていた記憶がある。
三島由紀夫とかドストエフスキーとか、新潮文庫がいちばん主要作品をたくさん文庫になっていたからだと思うが。
なので、フォークナーは『八月の光』と『サンクチュアリ』が主要作品なんだろ、となんとなく思っていたのだよな。
でもね、読んでみると、この『サンクチュアリ』は、大連作・ヨクナパートファ・サガの四作目、ではあるのだが、あんまり主要作、という感じの内容、出来ではないのだな。
フォークナー自身も「私としては安っぽい思いつきの本だ。なぜならこれは金をほしいという考えから書いたものだからだ」と書いているんだと、本書解説で、訳者・加島氏が紹介している。加島氏は「いやしかし」とこんな風に意味がある、いい小説だ、と解説を書いてくれているのだが、でもなあ、読んだ感じとしては、たしかに、前後に書かれた『響きと怒り』や『八月の光』と較べると、かなり落ちるのは確かだよなあ。でもね、センセーショナルな内容だから、初めて売れたんだな。この『サンクチュアリ』。
この本が書かれたのが1931年。その2年後、1933年には映画化されている。フォークナーは小説がその後もあんまり売れなかったから、1930年代半ばから40年代にかけて、映画の脚本を書いている。チャンドラー原作の『三つ数えろ』とか、ヘミングウェイ原作の『持つと持たぬと』を原作とした『脱出』とか。名監督ハワード・ホーク監督の「名作」と言われる作品の脚本を書いているのだな。
この『サンクチュアリ』は、映画化されたときは「暴風の処女」 The Story of Temple Drake (1933)というタイトルになっていて、かなりキワモノ、問題作だったらしく、翌年1934年にできた「ヘイズ・コード」(アメリカの映倫規定みたいなやつ。不道徳な映画をカトリックの価値観で取り締まるもの)ができる直接のきっかけとなったとも言われているらしい。(これはハワード・ホーク監督でもないし、フォークナーが脚本書いたわけでもない。)
なんというか、今でもアメリカのB級映画では、頭の軽い大学生カップルとか若者集団が、酔った勢いでドライブして交通事故起こして田舎の廃屋に迷い込んで、そこが実はお化け屋敷だったり犯罪者の巣窟だったりして、惨殺されちゃうスプラッタムービーとかホラー映画とか、男は殺されて女の子襲われちゃう犯罪映画とか、そういう「バカな若者」B級映画っていうジャンルがあると思うんだよな。これ、もう、始まりから前半は、そういう筋のお話なのである。
で、ヨクナパートファ連作の一作目『サートリス』に登場していたベンボウ一家、あれから10年後、ホレスが弁護士としてその事件に関わることになって、後半は裁判ドラマ要素も加わっていくのだけれど、これ『サートリス』を読んでいないでいきなりこれを読むと、ホレスの家庭や妹のことなんかがかなり分かりにくいと思うのだな。
だから、この作品からフォークナーを読み始めたら、いろいろ「分からないことだらけ」な上に、起きる事件も人物も「基本的B級アメリカ映画みたい」。まるで共感できないバカ・カップルが、訳の分からない犯罪者の家に迷い込んでひどい目に合う話、誰にも共感もできない話が延々と続くのである。
翻訳者で解説も書いている加島さんの言う通り、後半、裁判ドラマになってから、フォークナー作品らしい赤ん坊を抱えた強い女性が出て来て、弁護士ホレスがそれを助けようとする話としてポジティブな側面もないことはないが、いやあそれより、陰惨な救いのない暴力が優勢な暗い小説ではありました。
新潮文庫で読むなら『八月の光』から読んだ方がいいと思うし、フォークナーを一冊だけ、というなら『響きと怒り』か『アブサロム!アブサロム』どっちかのほうがいいよなあ、と思ったのでありました。
ちょっと蛇足だけれど、フォークナーが映画脚本家としても名作を何本か手掛けているの、なるほどなあと思うのが、冒頭のシーン。後半になって話の中心になる弁護士ホレス・ベンボウと、廃屋の犯罪者ポパイが、廃屋近くの泉で出会うシーンが、映像とか光とかカメラアングル、視点の移動とか、そういうものがすごく鮮やかに、印象的に描かれているのだな。これ、『アブサロム!アブサロム』の導入シーンもそうだったのだけれど、「映画的な導入部分」を小説冒頭にもってくるというの、なんだがカッコいいのである。そういう映画的手法と小説技法の融合、みたいな視点で読んでも、フォークナー小説はいろいろ奥深いのである。