ブルーハーツを聞いたら泣けてきた。『チェルノブイリ』と『少年の歌』

昨日の夜、心がささくれ立って寝られなくなった時、ブルーハーツの名曲いろいろをYouTubeで聴いて、泣いたらすこし心が軽くなった。

⑴チェルノブイリ
「チェルノブイリ」を聴いて、そうだ、今この4月前半、チェルノブイリの居住禁止区域の森林が大火災になっていて、燃えると煙になって放射性物質が空気中に拡散して、世界中とはいわんが、北半球ではかなり線量が上がっちゃっているのを、告発した科学者の発言や取り上げた記事が、いつのまにやら消されている、という事件が起きていたな。日本でも「線量に乱れが」とツイートした人がいたのが、消されていたんだよな。

 ブルーハーツの「チェルノブイリ」は、発売当初チェルノブイリ事故直後と、福島事故のあと、二回、大きく話題になったんだよな。

 福島事故の後の揉め方というのは、糸井重里氏、福島に寄りそうふりして被害を小さく見せようとする早野龍五東大教授と組んでのPA活動、今の「正しく恐がれ、心を一つに、落ち着け冷静に、批判をするな」路線の始まりと、深く関係している。

 (飯館村村長の、そこまで村おこしをしてきた成果を捨てたくないから村を捨てたくないのと、子供のいる若い母親たちの、一刻も早く避難したい、という対立があり、糸井氏は村長の肩を持ったんだよな。あのとき。糸井氏が、命より経済。生命より生活、そっちにねじ曲がっていった、大きな分岐点だったんだ、あの事件は。)

 その真っ向反対の「チェルノブイリにはいきたくねえ」(作詞 真島昌利)という、心の感じるままに怖がる自由の表明として、ものすごく大事な歌だったんだよな。ブルーハーツのあの歌は。科学的根拠がどうこうとか関係ない、心がいきたくないと叫ぶ。それは、データがどうとか、まだわからなくても、小さな子供を連れて一刻も早く避難したいと思った若い母親たちの心と重なる。結果、飯館村の汚染を考えれば、母親たちが正しかったのだ。
 
 僕が知的でかっこいい佐野元春や、もっとひねりの効いて強烈な忌野清志郎の反原発ソングよりも、ブルーハーツの「チェルノブイリ」がいちばん好きなのは、とにかく行きたくないんだ、それに理屈はない。その自由は手放さない。そのことをまっすぐに叫んでいるから。そのせいで、だからこそ福島問題で、激しい摩擦が生まれたんだよな。でも、自由って、そういうことだと思う。

⑵少年の歌

あとね。昨日聞いていて、いちばん涙が止まらなくなったのは、「少年の歌」。

(甲本ヒロト作詞)
〈誰のことも恨んじゃいないよ
 でも大人たちにほめられるような
 バカにはなりたくない。〉

なんでかっていうと、生まれてから、この曲を聴くまでずっと、僕は大人たちにほめられることしかしない、極めつけの優等生だったから。不良の、落ちこぼれの、パンクな人たちが甲本ヒロトに共感したのとは全然反対の、超優等生、大人たちにほめられることしかできない自分にささってくる歌詞。

 僕は会社やめる直前に参加したライブで、この曲歌って、
会社をやめて、生まれて初めて〈大人たちにほめられるようなバカ〉をやめられたって思えたんだよなあ。
あのとき、これほど僕の気持ちにぴったりの歌詞は無かった。

 怖いくらい自由だなあって、あのとき思えた。25歳の自分のことを思い出したら、なんか、泣けてきた。
 ギターとか、スピーカーとか積んだHONDA CR-Xで、東名高速を、大阪から横浜インター目指して走った夏の解放感、怖いくらい自由、あんな気持ちはその前にも後にもない。

コロナで家にこもって、何が正しいのか、そんなことを考え続けていた夜に、ブルーハーツが心にしみた。なんでかなあ。いいよね、ブルーハーツ。

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