ラグビー・姫野選手の愛読書・問題について。つらつら考えたこと。

超大型台風首都圏直撃で、今週末のワールドカップ・ラグビーは、「水入り」、おやすみになりそう。

ここで、ちょっと脱線して、ラグビー日本代表周りでの、ちょっと気になる話題から。

今大会、スーパーマン的活躍で一躍ヒーローになった、フランカー/NO8の姫野選手に関する「読書家、愛読書は百田尚樹『海賊と呼ばれた男』でリーターシップを学び、百田尚樹『日本国紀』を読んで、日本人について学んだ。」というニコニコニュースの記事。

 リベラルなFacebook友人の方は、姫野選手自身が、もし百田同様の極右思想の持ち主であるのならば仕方がないが、そうではないのに、これらの本を愛読書とメディアで発言することの意味を理解していないのであれば、それは幼稚で情けないことだ、という感想を書かれていて、それは本当にそうなのだけれど。

 スポーツエリートと「読書的知性」ということに関して、あるいは「政治的知性」について、何を期待し、どう考えたらいいのかしら、いうことについて、モヤモヤとここ数日、考えている。

考えたこと1

百田の本が愛読書、という話で、思い出した人がいる。

かつて、ある仕事で、かなり長いこと一緒に仕事をしていた、僕より20歳くらい若い後輩広告クリエーター。女性誌にもイケメン・ビジネスマンとして取り上げられちゃうような甘いマスク、背も高くてスタイルもよくて、性格もやさしくて、頭がめちゃくちゃよくて(東大理系を卒業していて、知能指数は165あって)、ダンスも踊れてスポーツ万能、という欠点0なんじゃないの、というスーパー男子。(一緒に仕事をしていたころは男子という年齢だったのだが、今や、30代半ばなのだろう。)

そんな彼も含め何人かで、大きなプレゼンが終わった打ち上げ飲み会があった。その席上。「好きな映画ベスト3」「好きな本ベスト3」をみんなで教えあう、というような流れになった。
 その彼が、百田尚樹の『永遠の0』が、いちばん感動した、一番好きな本って言ったので、まあ、僕としては、困ったなあ、と思った。読んではいたけれど、あまりにひどい小説だったので。当時、百田氏がネトウヨ価値観の人とは知らなかったんだけれど、単純に小説として質が低いなあ、と思っていた。本好き友達とは「あの小説、小説として下手すぎる。人物、全部、作者の都合でツクリモノ的にしか行動しないし、うすっぺらいし、そもそも設定にめちゃくちゃ無理があるし。」と話していて。
 しかしまあ、飲み会の席だし、そこは論争をしても仕方がないから、「ああ、読んだ読んだ」と適当に相槌打っておいた。聞けば、彼のお父さんは飛行機関係の仕事をしていて、それが縁でお母さんと出会った、ので、飛行機モノには、心が熱くなるんです。だから、映画は『天空の城 ラピュタ』が好き、みたいな話になって、宮崎駿の話に、話はずれていった。ああ、よかった。

 東大理系卒、知能指数165あっても、文学的素養はそんなに無くて、政治的にもモノを深く考えない人というのはいるもの。エンターテイメント的にしか読書はしないから、背景にある政治的思想がネトウヨ的なのかどうかは、別に考えも及ばない。こういうタイプの人の「知的優秀さ」というのは、スポーツマンの「運動能力の高さ」と同じような、限定された領域での、特殊能力の高さであって、「文学や政治に対する思考の深さ」とは、全く別軸の能力。(別軸・独立しているということは、両方高い人もいれば、どちらかだけ高く、もう片方は低い人もいる。ふたつの軸の高低に相関が無い、ということ。)

 スポーツエリートや理系エリートの、文学音痴だけなら別に害はないが、「政治音痴」ぷりは、危うい。自民党に利用されやすい。多くのスポーツエリートが、政治的に深い考えなしに、知名度を利用されて政界に入り、その後、素直に、ネトウヨ的価値観に染まっていく例は多くみられる。橋本聖子も、田村亮子も、馳浩も、みんなそう。
 そのための、洗脳装置として、百田氏の小説や著作というのは、ちょうどよい読みやすさ、エンターテイメント性を持っているのだ。文系文学系の人からするとまがい物以外の何物でもないのだが。
 そう考えると、「文学音痴」と「政治音痴」というのは、実は国民総体で言うと多数派であり、それを取り込むエセ文学装置として、百田尚樹氏というのは、実に恐ろしい存在なのである。だって、出す本、みんなベストセラーになるわけだから。

あの、漢字が読めない安倍総理も愛読、姫野も愛読、僕の後輩も百田著書を愛読。
 一方、リベラルな、文学が分かる人たちは、百田本は、一冊二冊読んだだけで、もう手に取る気にもなれない。ネトウヨ文学音痴と、リベラル文学政治派とは、共通の言語を全く持てず、対話にもならなくなってしまう。

考えたこと その2

 今大会のヒーローと言えば、福岡選手もその一人。文武両道で、今大会(と五輪)後は、医学部に再入学して医師を目指す。
 この福岡選手を追いかけた、ワールドカップ数か月前のTVの特集の中で気になったこと。代表合宿でも「変人」として、代表選手の多数派からは「敬して遠ざける」扱いを受けていた。まあ「「浮いていた」わけ。典型的スポーツマン的ナイスガイの松田力也選手(パナソニックで同僚)との対比で、その「浮いている感じ」が伝えられていた。
 スポーツの能力と、勉強ができる能力は、基本的には独立した能力軸なので、スポーツエリートの中に、ある割合で知的エリートも混じる。柔道の朝比奈沙羅も、両親が医師で、医者を目指しているという、福岡選手と似た境遇、似た将来を描いている。

 こうした「スポーツエリートにして知的エリート」という人は、どうしてもスポーツの世界では「浮いた存在」になる。

 私の三男のいた桐蔭学園の柔道部でも、同期には慶應の法科大学院を出て弁護士になった子もいる。一年後輩には、中学高校と全日本強化選手だったが、勉強もトップクラスの秀才で、東海大医学部に進んで医者になった子がいる。この彼は、明らかに寮生活でも浮いてしまったようで、高校途中で寮を出て、かなりの遠距離を通学することになった。桐蔭学園とは言え、やはり多数派主流派は、柔道以外のことは深くは考えない、ノリのいい、気のいいスポーツマンタイプだから。「バカでいいやつ」がマジョリティかつ正義の中では、過剰に知的な子は、生きにくいのである。

 スポーツの世界にいながら、文学的にも政治的にも知的に洗練された考え方を持つ、というのは、これはなかなか並大抵のことでは無い。そもそもの素養と、そうあり続ける努力と、「浮いてしまうこと」を恐れない強さと。

「本も読まない、政治についても深く考えないノリのいいスポーツマンタイプ」(多数派)と、「知的エリートでもあるがゆえに浮いてしまう少数派」がいて、それをつなぐ、全員をまとめようとするリーダー、がいる。その真面目なリーダーたらんとした姫野選手が、読んで、学んだ本が百田尚樹の本だ、ということ。それは、なんというか、やむを得ないことでは無いのか、という感じがする。本も読まない人まで含めて日本人全体とするならば、百田本を愛読する人が、日本人の知的重心になってしまうのは、仕方ないことなのではないか。百田本よりも本物の文学寄りになったときには、それは、本を一冊も読まない多数派との距離が遠くなりすぎるのではないか。重心からズレて、リーダーとしての有効性が低くなってしまうのではないか。

 安倍政権が史上最長期政権になっていること、百田本がベストセラーになること、日本というのは、そういう国なのではないか、ということを、ここ数日、悶々としながら、考えたわけです。この問題を克服しない限り、リベラルは政権を取れない。日本人は、ほうっておくと、自然に右旋回して、「日本スゴイ」と内向きになっていってしまう。


とはいえ、考えたこと。

 多国籍のいろんな人が集まって日本代表を作り、世界中から、いろんな人たちが集まって交流するという、この素晴らしいラグビーワールドカップの時期に、それにまつわる話題で、百田尚樹の名前を目にし、こんなことを考えなければいけないというのは、この上なく悲しいことですが。

 しかし、「スポーツの勝利=日本すごい」に単純になりそうなところ、ラグビーの場合、「日本てなんだ、外国人と一緒に、日本人だけじゃなく、日本代表を作るってなんだ」ということに、みんなが気づく。考える。

 そして、「国際大会での勝ち負け=疑似戦争、国としての優劣」みたいなことではなく、試合は試合、終わったらみんなラグビー仲間、という、このラグビー文化に触れることで、ネトウヨ的「日本スゴイ」を克服する契機になればいいなあ、と思います。


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