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『民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義』デヴィッド・グレーバー (著), 片岡大右 (翻訳)を、アメリカでの黒人差別反対デモのCNN報道を見ながら、読んだ。

『民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義』 (日本語) 単行本 – 2020/4/22
デヴィッド・グレーバー (著), 片岡大右 (翻訳)

Amazon内容紹介

「『ブルシットジョブ』(岩波書店より近刊)そして『負債論』(弊社刊)で話題沸騰中の人類学者D・グレーバーによる、通念を根底から覆す政治哲学。
すなわち、「民主主義はアテネで発明されたのではない」——。
この価値転覆的な認識をもとに、私たちはいかに「民主主義」と出会い直しその創造をふたたび手にするのか。
アラン・カイエによる「フランス語版のためのまえがき」および「付録」として恰好のグレーバー入門となる著者本人によるエッセイ(「惜しみなく与えよ」)を収録した、フランス語版をベースに編まれた日本独自編集版。」

ここから僕の感想


 『負債論』が面白かったので、最新刊を読んでみたが、『負債論』と違って薄くてすぐ読めた。その割に高かった。

 民主主義はアテネで生まれたわけでも、フランスとアメリカがそれを受け継いで成立させたものでもないぞー、ということを論じている本で、総論としては、なるほど、ですが、それよりも、この人が向かっている方向が、かなり面白い。民主主義という言葉は、ごく最近までアナキズムと似たニュアンスの言葉であり、いまどきの人は、それを受け入れずに、なんとか否定しようとするが、私は、民主主義をアナキズムとおおむね同じものと考えているんだよ、という、かなり大胆な立場の表明をしている。なので、ひとつひとつの分析は正しいのだが、本全体が向かっている方向を「そうだそうだ」と受け入れにくい、そういう本でした。

話がちょっと逸れます。


 ちょっと前に読んだ『女のいない民主主義』という本でも、アメリカって、実は民主主義の国としては、かなり後進国なのよ、という話が書いてあってびっくりしたわけですが、この本でも、アメリカは果たして民主主義国家なのか、という問題提起がされている部分があって、面白かった。
 引用します。

「当時のほとんどの政治家が民主主義を思わせる者すべてに敵対していたのは、彼らが自らを、私たちが今日「西洋的伝統」と呼んでいるものの後継者とみなしていたから、というまさにその理由によっている。たとえば、ローマ共和国の理想が合州国(僕の註、誤字じゃなくて、わざとこう書いている)の国制のなかで顕揚されているけれども、体制設計者たちは完全に自覚的に、ローマの「混合体制」=君主制、貴族制、民主制の諸要素の間で均衡を取った=を模倣しようと努めていた。ジョン・アダムズがよい例だ。彼は『憲法擁護』(1797年)において、真に平等な社会など存在したためしがなく、歴史上知られたすべての人間社会には最高指導者と貴族階級(富による貴族であれ美徳ある「生得の貴族」であれ)と庶民が見出されるのであって、ローマの国制こそはこれら三者の勢力均衡において最も優れたものなのだと主張した。合州国の国制はこのような均衡を、強大な大統領府、富を代表する上院、人民を代表する下院の設置によって再現すべきものなのだ。ただし均衡とは言っても、下院の権力はおおむね、租税収入の配分の人民による監視を保証するだけのものに限られていたのではあるが。この共和国の理想はあらゆる「民主主義的」国制の基礎に横たわっているのだし、今日に至るまで合州国の保守的思想家たちは、「アメリカは民主主義国ではなく、共和国なのだ」と好んで指摘する。

引用おしまい。

 こういうローマ政体を理想とするエリート主義者は、民主主義を「暴徒(モブ)」のものとして規定してきたのだ、という。

引用します。

 こうしたことを考えるのは「民主主義(ルビ デモクラシー)」という言葉それ自体を説明するのにも役立つだろう。この言葉は、それに敵対するエリート主義者たちが、中傷の意図をもって考案したもののように思われるのだ。それが文字通りに意味するのは、人民の「力」、さらには「暴力」でさえある。つまりkratosであって、archosではないのだ。(訳者注、前者は単なる強さや力、後者は正当な支配者を含意) この言葉を考案したエリート主義者たちは、民主主義というものをつねに、単なる暴動や暴徒主義とそう変わらないものとみなしていた。けれどももちろん、彼らとしては、人民をそれ以外のものによって絶えず征服していくという解決を企てていたわけだ。そして皮肉なことだが、彼らがそうして民主主義の抹消に努める時=それに彼らはたいていの場合そのように務めるのだが=、その結果として、一般民衆が自分たちの意志を知らせるための唯一の方法は、まさしく暴動によるもののほかなくなってしまう。じっさい暴動は、帝政ローマや18世紀イギリスではもいわばすっかり制度化された実践となっていた。

引用おわり。

 今のアメリカの状況をCNNなどで見ながら、この本を読むというのは、そういうわけで、大変に興味深いものだったわけです。

 黒人のジョージ・フロイドさんを白人警官が膝で押さえつけて殺害したことに対する抗議行動に関連して、今日はこんな報道があった日です。(ブルームバーク記事から。)

①米ナショナル・フットボールリーグ(NFL)のコミッショナー、ロジャー・グッデル氏は、人種差別に関する選手の過去の発言に耳を傾けていなかったと謝罪し、NFLは「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命は大切だ)」運動を支持すると表明した。
②アマゾン・ドット・コムのジェフ・ベゾス最高経営責任者(CEO)もインスタグラムを通じて同運動を支持するメッセージを出した。
③トランプ政権は5日、首都ワシントンの地域に派遣していた兵士を撤収させると表明。ワシントンのバウザー市長は兵士の存在が緊張を高めていると主張していた。さらに市長は、ホワイトハウス近くの通りを「ブラック・ライブズ・マター・プラザ」に改名した。

 また、デモ当初の暴徒化について「2020年ミネアポリス反人種差別デモにおける一部の抗議者が暴徒化した問題で、FBIワシントン支局(FBI WFO)が「ワシントンD.C.における暴動では、組織的な関与は見られなかった」と報告していたことが分かりました。一方、ウィリアム・バー司法長官は2020年6月4日に、「連邦政府は、過激派グループが暴力を扇動して合法的なデモを乗っ取った証拠を保有している」と発表しました。」という報道もあった。



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