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「どうする家康」 第46回「大阪の陣」に感じた違和感について、どんどん関係ない方に考えがいってしまった、という話。大筒の使用は、どう正当化されるのか。

 もうずいぶん長いこと「どうする家康」感想は書いていないが、毎回、ぼんやり眺める程度には見続けている。有村架純退場後は、もうあんまり本腰を入れて、感情移入してみる気にはなれなかったのである。

 なんだけれど、今日、なんとなく納得できないシーンと台詞があって、それについてこの時間までぐずぐずと考えていて、考えがまとまらないので、とりあえず、書くか。ということで、パソコンを開いた。

 まず伏線としては、今朝のTBSテレビ、関口宏さんがもうすぐ勇退するとかの「サンデーモーニング」ふだんはNHKの日曜討論を見ている午前9時34分なんだが、今朝はあっちがすごく嫌だったので(脱炭素社会がどうしたといって、結局原子力の電源構成比を2022年の5.6%から2030に22%に増やすという政府見通しをさらっと当たり前のように語ろうという悪辣な。)、なので、普段見ないサンデーモーニングをたまたま見てみたら、

 ちょうど国連本部で開かれていた核兵器廃止条約についてのかなり長い特集をやっていた。核兵器開発歴史から広島長崎の直後の被害の様子から、直近のプーチンやイスラエルによる核の脅し、使用のほのめかしから、バイデンの「核のボタン」を持ち歩いていることを冗談にした問題から、映画「オッペンハイマー」の話からと、そうとう幅広く核兵器問題を取り上げていた。

 あーと、ちょっとここで断っておくと、僕は「強硬な原子力発電反対論者」「原発絶対反対、即時廃止」論者なんだけれど、核兵器については、いろいろあって、「使用すべきではないが国際的に共同管理して保有しておく」派という、なんだかよく分からない立場意見なのだな。

 現状の少数の大国核保有国の核抑止理論での中国核兵器大増産状態は非常に危険な状態ではあるので、過渡的なものとしてなんとか人類みんなで知恵を絞ってこの大国核保有抑止状態を、核兵器不使用のまま乗り切らなきゃあいかん、という危機意識はある。

 しかし、それが「核廃絶」に向かうべきかと言うと、その先に人類全体の核兵器共同管理体制にどうやったら移行できるか。(核兵器が開発された直後はそうすべきだという考えがあったのである。)それを目指すべき。というのが僕の、かなり変わった考えなので、「核兵器廃止」に賛成ではない。

 なぜかというと、まず、最強の武器兵器は、いったん生じた以上、人間の本性として誰かがなんとしても手にしようとするもので、それをなかったことにはできないということ。それと、もうひとつはバカバカしいと思うかもしれないが、いつか分からぬ将来の、何らかの人類全体の宇宙規模の危機のために核兵器は人類が共同管理しつつ、「いつでも使える」状態で保持し、なんならその技術も常に進化させるべきという、あんまり普通じゃないSF映画見すぎ的な考えの持ち主だということはいちおう書いておく。そういうことに日本が参加していないということに不安と不満も持っている。という変人であるということは書いておく。「反原発だから反核兵器の意見をこれから開陳するんだろう」と思われると、ちょっと嫌なので。SF映画でよくある「地球に衝突しそうな小惑星や彗星を核兵器で破壊する」とか、「敵対意識を持った異星人が攻めてくる」とか、いちばん突拍子もないやつだと映画「パシフィックリム」みたいに「異次元の裂け目から怪獣が定期的に現れてしまう」とか、そういう人類の生存の危機に核兵器とミサイル技術が必要になる可能性は将来にわたって0ではない。そのための技術は保持しつつ「人類同士の戦争に使わない」という状態にもっていくのが正しいと、バカだと思うかもしれないが、本気で思っているのである。小惑星衝突が迫って、核兵器による小惑星破壊による危機排除という、「アルマゲドン」では成功し、「ディープインパクト」では半分失敗したような、「ドント・ルック・アップ」では大失敗したようなことが起きるリスク、これは本当にあると思うよ。だから核兵器は人類みんなで共同管理しつつ、即、使えるようにしておく必要があるのである。(たまたま一昨日、CSで「ディープインパクト」見ちゃったんだよな。)

 話は脱線したが、サンデーモーニング特集に戻ろう。

 その特集の中で2015年、日米での調査での「広島と長崎の原爆投下は正当化できるか」という問いに対し、「正当化できる」が日本では14%なのに、アメリカでは56%と過半数。この違いをアメリカのピーター・カズニック教授と言う歴史学者が「アメリカでは『(原爆は)本土への侵攻をすることなく何百万もの日本人の命を救った』という正当化するウソがまかり通ってきた」と字幕つきで解説。うーん、本当はまずは米兵の日本本土上陸作戦での多大な犠牲を防いだ、米兵の命を救ったということで正当化できると米国一般人は思っていて、それはあながち嘘ではないんだろうな。だって硫黄島などの激しい抵抗、沖縄戦での激しい抵抗、そこで米兵は結構な犠牲を出しているわけで、本土上陸・本土決戦となった場合の日本軍の激しい抵抗を予想するのはそんなに的外れではないから。特攻攻撃と玉砕を恐れない狂信的な国民だと思われても仕方がない戦い方を戦争末期、日本はしていたわけだし。米国民が核兵器使用を正当化するのは、まずは米兵の犠牲を最小限に抑えたから。そこまではしかたないじゃん。
 でもさ、この番組のインタビュー使いどころと翻訳つけるとこ、本土決戦を避けることで日本人の犠牲も抑えられたという、そっちの理由がメインみたいなVTRの作りは正確ではないわな。こっちの理由は根拠薄弱だろうて。そこだけ強調したら「ウソ」じゃん。番組の姿勢自体がしんようならなくなるじゃん。
 アメリカは正しかったなんて言いたいわけじゃないよ。本土決戦以前に原爆だけでなくルメイの作戦立案した全国への焼夷弾無差別空爆でどんだけ日本人民間人を殺したんだよ、という文句はもちろんあっちこっちに言いたくなるのであるが。(戦後秩序で米国が優位に立ちたいために、どうしても米国は、トルーマンは、戦争の終結には別に必要なかったのに、日本に対してなんとしても原爆を使用したかったみたいな国家としての戦略論とか外交史の真実、みたいな話は、まあ認識はしている。ここでは一般米国民が核兵器使用は正当化できる理由をどう認識しているかを論じているのであります。その意味で、「米兵の犠牲を減らせた、避けられた」というのは、一般の米国民にとっては納得性があるんだろうな、という話をしているわけです。蛇足ながら、ツッコミが入りそうなので補足)

 あ、どうする家康からどんどん話がズレるな。とにかく、この発言を、なんとなく、聞いていたわけだ。朝に。

 こういうこともあって「アメリカでは核兵器禁止条約のことはまったく注目されていない」とこの教授は言う。そうなんだろうと思う。教授は続ける

 映画オッペンハイマーでは「映画が公開され核問題に関心は集まった。しかし日本人の犠牲者を描くこともその問題をとりあげることもなかった」「アメリカ人は核抑止が何なのかよく

わかっていない。」

 でね、夜、妻と「どうする家康」を見ていたわけだ。

 松潤家康は前回かな、三浦按針に「大筒を用意せよ」と命令していたんだな。そして、大阪冬の陣を迎えるわけだが、まず、松潤家康は、松山ケンイチ本多忠信に、この戦では息子(将軍)秀忠に戦は任せず、自分が指揮を執る決意と理由を語る。「秀忠は人殺しの術など覚えんでよい。この戦は徳川が汚名を着る戦となる。信長や秀吉と同じ地獄を背負いあの世へ行く。それが最後の役目じゃ」と。

そして、戦が始まり、徳川勢30万に豊臣勢10万だったので、

豊臣劣勢ではあったのだが、豊臣秀頼は「この大阪城は難攻不落。籠城すれば落ちることは無い」と徹底抗戦の構え。

 真田丸での真田の強硬な抵抗もあり、前田勢など徳川側にも甚大な被害が出る。真田親子が「乱世を泳ぐは愉快なものよ」とうそぶき、誰だかわからないけれど、その戦果を「敵は顔を出せば真田の鉄砲の餌食、面白いように死んでおりまする」と淀君や秀頼に報告している。両軍の戦死者犠牲者がすごく出た、とまず印象づける脚本である。

 そこで家康は、大筒の使用を決意するのだな。

家康「あれを使うことにする。」

秀忠「父上、あれは脅しのために並べているのでは。本丸には届かんでしょう」

家康「秀頼を狙う」

秀忠「さ、されど、そうなれば」(秀頼に嫁いだ娘、千姫が、の意)

家康「戦が長引けばより多くのものが死ぬ。これは僅かな犠牲で終わらせる術じゃ。主君たるもの、身内を守るために多くのものを死なせてはならん」

このセリフを聞いていた妻が「今朝の原爆の時に聞いた話だね」

僕が「脚本家的には、大筒を、この時代の核兵器としたわけだね」

片桐(って誰?ああ、夏の陣直前に豊臣を裏切って家康側に来たやつか)「秀頼は今頃ならば本丸の主殿に、おなごはその奥にいるかと存じます」

ということで、本丸に向けて大筒砲撃が始まる。家康本陣からはかなり遠くに大阪城が見える。人は見えず建物だけが見える。

大阪城では兵も女たちも逃げ惑う。建物大被害。

秀忠、家康に「父上、やめて下され。父上。やめろ、こんなの戦ではない。父上、もうやめろ」と掴みかかる。

家康「これが戦じゃ。この世で最も愚かで醜い人の所業じゃ」

うーーーん。うーーーん。違和感。

ここでこういう現代的反戦メッセージ、なんか、リアリティがない。

 大阪城本丸に視点を移せば、建物に大被害、頭を抱えて動けなくなる千姫をかばおうと、淀君北川景子、崩れてきた屋根の下敷きになり倒れる。千姫周りを見回すと多くの将兵が女たちががれきの下敷きになり死んでいる、屋根の穴から空が見える。

 そう、被害現場にいけば大殺戮なわけだが、何キロも離れたところから大筒打っている方からは、この阿鼻叫喚は想像できないと思うのだよな。

ここで次回に続く。予告編。淀君は死んでおらんな。

僕の違和感は何かというと、

これ、長篠の戦いのときに、今回の秀忠とおなじようなセリフを若い家康は口にしていたのだな。柵に阻まれたところを兵鉄砲隊でうちまくられで武田勝頼勢がどんどん死んでいくのを見て、家康が「こんなものは戦ではない」とショックを受ける、というシーンがあったのである。

 ちょっと冷静に考察するね。兵器が進化するということ、威力が大きくなると共に、射程が伸びるのだよな。

 で、射程が伸びると、死ぬ相手が遠くになる。小さく見える。

と、殺しているという実感が薄くなる。ということは様々な学問的研究で分かっているのだな。

 そして、「戦果」がどんどん上がる。こっちが安全で、相手がどんどんやられていく。「殺している」「死んでいる」という実感が薄くなって、「すごーく勝っている、圧倒的に優勢である。自分が無敵である」という感じがしてくる。

 そのことの持つ人間性の欠如、みたいなことは、後になって日常が戻ってきたときに、一部の良心的な兵士や将軍の心を襲うもののようである。様々なドキュメンタリーなどを見ると。そういう風に後日であっても思う人はかなり良心的な人であって、そうは思わず、「戦争とはそういうものだ」「自分は正しいことをした」と死ぬまで思っている人もたくさんいるようである。兵器の進化は、そういう風に人の心に作用するのである。

 銃や大砲について、戦国時代の武士たちの感じたであろう「こんなものは戦ではない」という感想があるとすると、それは槍や刀といったものを使っての、武術の巧拙強弱と無関係に戦が進むことでの、自らの武芸の無意味化、無力化ということでの「こんなものは戦ではない」という感じ方はあったであろうが、長篠の時の家康、今日の秀忠のような強大な殺戮兵器の非人道性を批判するような意味での「こんなものは戦ではない」という発言と言うのは、なんというか、戦争のその現場での発言としては、リアリティがないようなあ、ドラマとしての迫真性が無いよなあ、心に響かないよなあ、と思うのである。兵器の進化とそれによる戦争の変化が、現場の兵と将にどの様に受け止められたか、ということについての洞察考察がかけているんじゃあなかろうか、という感じがしたのである。

 刀の時代に大量の銃を、銃がいきわたった時代に大量の大筒を用意できる圧倒的財力、外交力、生産力などを独占した権力者が生まれた場合、抵抗が不可能になり、しばらくの間、平和な時代が訪れる。そういうものとして、この回の大筒による大阪城本丸攻撃は描かれている。それは正しいと思う。そうであるとすると、極端に強大な兵器は、ある期間、大規模な戦争をしにくくする。そういう意味で脚本家が、米軍の日本への原爆使用と同じ論理を家康に語らせたのは、そこまではひとまず正しい。

 しかし、その威力を目にした秀忠が、本丸に娘千姫がいるからといって、あのように、大筒攻撃の『非対称な卑怯さ」とか「非人道性」みたいなことを非難し、という流れと言うのは、どう考えても、現代的反戦、反核兵器、非対称な(片方が極端に近代的兵器で武装し、片方が弱小でゲリラ的に戦わざるを得ない)戦争の問題を想起させるように描くのは、なんか、「大河ドラマに現代的戦争観を持ち込みすぎ」な感じがしてしまったのである。

 人間は、ものすごく進化した兵器を手にして、圧倒的に優位に戦争を進められると分かったその瞬間は、相手を残酷に殺しているという感覚よりも、「やったー」「おれたち圧倒的に強い」という高揚感に包まれるもんだと思う。それを描いたうえで、娘を敵陣に置いている秀忠だけがそれに異議を唱えたいか唱えられない。と言うような描き方の方が良かったんじゃないかのう。

 今、ちょっと読んでしばらくほっぽってあった『戦争と交渉の経済学』クリストファー・ブラットマン著という本の帯にこんなことが書いてある。

「平和とは、敵同士が、損得勘定で戦争を避けることにほかならない。」

そうだとすると、極端に破壊力の強い武器を片方だけ持っちゃったときは、損得勘定からしばらくは弱い方は戦争ができなくなるし、(徳川時代の平和はこうして始まったわけだし)、まあ、なんかその辺のところを冷徹に考えた家康っていうことに、最後、うまく持っていけるかなあ、この脚本。

 「どうする家康」はともかく、『戦争と交渉の経済学』は、読みかけだから、ちゃんと読み切ろう。そんなことを考えたわけでした。


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