【最終回】 小説 『キラー・フレーズン・ヨーグルト』(16)
【前の話】
普段使わない筋肉だったせいか、右腕の筋肉痛は月曜日になっても続いていた。弁当を食べる箸がうまく操れない。
でも、その鈍い痛みがなにかの成果のようで心地よかった。
背後から例の声が聴こえた。
「ちひろさーん、ランチ時間長すぎじゃないかあー。昼休みってのは、仕事をしっかりやった人が初めて取る権利があるものであってさあ」
箸を持つ手に力がこもる。
すばやく振り返って、その声の主を見上げた。
にやけ面にある充血した目を捉えた。
ピクッと細かく痙攣したのが見えた。
わたしはすばやく立ち上がり、右手にある箸の先端を首筋へ突きつける。
首に刺さった棒。
そこから一気に血が吹き出す。
――そんな像をイメージした。
実際は、ただまっすぐ、見ていた。
こいつの目をまともに見たのは久しぶりかもしれない。
こんな顔をしていたのか。目の下のクマ、ひげにまじる白い毛。
こいつも苦労しているんだな。
男はしゃっくりを抑えるようにつばを飲み込み、目を小刻みに動かした。「あ、いや、午後も……なるべく早く仕事取り掛かれるようにしてもらえたら……」と口ごもりながら言って、そそくさとデスクに戻っていった。
わたしは姿勢を戻し、右手をわずかに引き上げたあと振り下ろし、弁当に箸を突き刺した。
ポテトのやわらかい感触を感じたあと、抜き取る。
先に付いたケチャップを、ゆっくりとなめた。
その日の午後、あいつが声をかけてくることはなかった。廊下ですれ違ったときも、ただ目をそらすだけだった。
それが今後も続くと思うほど、わたしも楽観的ではない。明日にはまた嫌味と無意味な指令が再開されるかもしれない。
でも、「覚えておいて損はないよ。人殺しの作法」という、ハルさんの言葉を思い出す。
たしかに、損はないかもしれない。
得があるかもわからないけど。
あれも、サマリンガ博士の言葉なんだろうか?
聞きそびれてしまった。
きっともう尋ねる機会はないだろう。
そして、彼にはまた別の誰かから殺人依頼が届くだろう。ネットに流れた情報は、そんなに簡単には消えない。過去はいつまでも影のようにつきまとい続ける。
それでも、とわたしは思う。
いつか、新聞の人生相談コーナーで、ハルさんが回答しているかもしれない。質問者を小馬鹿にしながら、ダサい決めゼリフを記している。
そんな記事を想像して、わたしはほくそ笑む。
そして、カバンに付けたキーホルダーに目をやる。大きなスプーンを持っているコボたまの拳は胸の前にある。
その姿はファイティングポーズにも見えた。
完
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