見出し画像

自分の欠点にもサティヤであること


前回の記事で「サティヤ」というインドの宗教哲学の中でも重要テーマについて語りました。ちょっと追記したくなり、続きとして書きます。


「サティヤ」という感性を、普段の行動においての「バランス」の指針にしてみるとどうかな、っていう提案です。


■バランス感覚と指針としてのサティヤ

心の静寂を保ち落ち着いた日々を送る上で、時間の使い方、体力の使い方、心の使い方、これらのバランスが大事だと思います。いろいろなことを抱えすぎてしまうと、時間・体力・精神のいずれかで無理をしてしまい、消耗されるような状態に繋がります。人生には時に何かが過剰に偏る時期もありますが、ある程度、通常期間としては丁寧に物事や自分を扱っていけるのも大事だと思います。


前回記事でも述べた通り、サティヤは正直・真実である事、という教えですが、例えば自分の「弱点」とか「欠点」に対しても、正直な見方を持って意識しておくといいと思います。何か無理しすぎてしまったり、必要以上に抱え込んでしまったりする時、そうなった元々のところまで辿ってみると「自分の性質を考慮しなかった」というのもあるかと思うのですね。


人には皆、得意・不得意があります。得意や長所を前面に出して行為するのは、まあポジティヴでいいことではあるのですが、時としてバランスを見誤ってしまうことも多いと思います。得意、できる、やりたい、に任せすぎると、自分の不得意や短所をいっとき忘れてしまいます。


提案としては、自分の弱点や短所による「自分が陥りやすいパターン」に対しても「ありのままを見る」というサティヤの感性で冷静でいられると、最初の段階から「これは抱えないほうがいい」「これは人に手伝ってもらったほうがいい」「ここは一回休もう」・・というようなさじ加減が働くようになります。


■完璧な人はいない

インドの叙事詩「マハーバーラタ」に、ユディシュティラ(王子)という人物が登場します。物語の中の主要人物の1人で、劇中では「皇帝」にもなるような立派な人として描かれています。


彼は、正直で、誠実で、賢く、智恵に富み、優しさに溢れ、利他的で、正しい判断で政治を為す事で民衆から多大な信頼を得ています。「サティヤの申し子のような人物である」と誰もが評価しています。


前回の記事でも「思考と行為が一致していればそれはパワーになる」、とお話しましたよね。思っている事と言っている事が一致するのもパワーになります。


ユディシュティラは嘘をついたことがなく、誠実な内面をそのまま言葉と行動にしている人なので、それは人並みはずれたパワーとなり、なんとユディシュティラの乗る馬車(戦車)は宙に浮いている!と(笑)。すごいですね!
偽りない心は、人間を重力から解放するのですねw

確かにね〜〜、嘘偽りを言っている心や、思っている事と行為が一致しない時、心身ともに重くなりますよね。


そんなサティヤな彼なのですが、唯一の欠点があります。

ユディシュティラの欠点。それは「博打が好き」なところです。


インドの王族の間では昔から「サイコロ遊び」での賭け事が楽しみだったようです。しかも、当時のインドでは(インドじゃなくてもそうかもしれないですが)、男だったら売られた喧嘩は買わなければいけないというような美徳めいたものがあるらしく、勝負を申し込まれて断ったら恥、というような考え方があったようです。(めんどくさいですねw)


いつもは実直・誠実・正義の人、というようなユディシュティラであっても、賭け事の魅力に勝てず、勝負を挑まれたら内心はおおいに興奮して受けて立ってしまいます。サイコロ遊びと言っても彼らは王族なので、賭けに差し出す条件もスケールが大きく、王国の財産であったり、領土であったり(そこに住む人々も入ってしまう)、自分の家族であったり・・・と。


「賭け事」になると理性を忘れてのめり込んでしまうユディシュティラは、もう降りた方がいいというタイミングでも、おだてられたり、あるいは吹っかけられたりすると、負けているにも関わらずズルズルと何回戦も興じてしまうという盲目さがありました。挙げ句の果てにユディシュティラは、サイコロ勝負での敗北によって、「国をかけての大戦争」の発端を作ってしまう程の愚かさを露呈するのでした。

マハーバーラタでは、極悪非道な従兄弟王子たちの策略によってサイコロで負けに負けたユディシュティラは、すべてを剥奪されたうえに、妻と弟王子たちと共に国外追放されます。ユディシュティラ自身は戦争など反対なのですが、妻も弟王子たちも復讐心を持ち、最終的に「従兄弟と戦う大戦争」になってしまうんですね。戦争に反対したって、そもそもきっかけをつくったのは自分の博打好きだった、そんなユディシュティラの弱点と失態が描かれています。(物語は最終的にこの大戦争がハイライトになり、ほとんどの登場人物が死んでいく悲惨な流れになっていきます。)


ユディシュティラのそのような性質は、全ての人を象徴しています。どんなにすばらしい人でも、何かバランスを欠いた癖を持ち合わせているものです。ユディシュティラの姿はそういった「悪い癖」が自分の足を引っ張って、思いも寄らない大惨事の要因にならないようにという事を警鐘し、物語の辛辣なスパイスになっています。


ユディシュティラはその後、大戦争において、作戦上「嘘をつかなければいけない」局面に立たされます。真実ではない情報を敵に伝えて撹乱させる、という作戦です。作戦は最も効果的に相手を出し抜く必要があるため、「これまで嘘をついたことがなかった」ユディシュティラが発言して、敵方に本当だと思わせなければいけなかったのです。

サティヤの人ユディシュティラがその「偽情報」を言い放った時、彼の乗った宙に浮く戦車は、地面に落ちたそうです。


■ありのままを受け止めるって、時としてムズいしハズいけど。


はてさて、マハーバーラタの話がおもしろい・・・と思ってもらえたらそれはそれでかなり嬉しいでのすが(笑)、話を本筋に戻し。


私たちも、いろんな癖や性質を持っていますね。その中には弱点、欠点もあります。人によっては自分の欠点に無頓着で、、危うい道へと駆り立てられたりする人もいますし、事が複雑になってしまったり、変なことにハマってしまったりするような癖を持っていたり、大なり小なりあるわけです。


ですので、何かを選択する際や行動を起こす際、自分自身の欠点も含めた性質をよく考えた上で、自分の行動や選択を見極めていけるといいだろう、と思います。


まあね〜〜そうは言ってもなかなかね(笑)
勢いに乗ってる時やうまく行っている時ほど、自分の欠点なんて思い出さない、あるいは「今はこのまま調子こかせて!」、と欠点など見たくないわけですよwww

しか〜〜し、やっぱり、人生なめないほうがよいのですw!


ちょっと振り返って見てみてください。
これまでの人生のいくつかの「変化」や「方向性」を決めてきたのは、自分の意識的な選択だとか、あるいはご縁だとか思いたいところですが、その背景には自分の「欠点」や「愚かさ」によって操作された動きが、きっとけっこうあるんですよ。
なぜなら、欠点・弱点・愚かさが「欲」「渇望」を引き起こし、その欲望によって突き動かされ、表面的な「意志(意思)」や「自覚的な選択」があるかのように言葉の上で体裁を整えて、かろうじてうまく事が運んだ・・・そんなことも多いわけですよ。
人はいつだってそんなに自覚的に何かを行為しているわけじゃないのです。大事な局面ですら。
「あの時私は自分の意思でそう決めて、結果良かった」とラベリングしているものも、当時のリアルな心理をつまびらかに見ることができれば、その心理の中には自分の欠点や弱点から起こる情動に操作されたものが、あるはずのです。
たまたま変な事や惨事にならなかったものも、きっとあるのです(笑)。


というわけで、

自分の弱点とか欠点に対しても、ちゃんとありのままを見て、意識しておくといい

という意味でのサティヤ(真実)でした。

これは私の中のひとつの「サティヤの応用」なので古典的な解釈ではないのですが、参考になれば嬉しいです。


今日も読んでくださってありがとうございます☆

Namaste
EMIRI


いいなと思ったら応援しよう!