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頭の中の音とか、全部音じゃんねみたいな話

(2024.11.19メルマガアーカイブ)


前置き

今日はかなりざっくりと思ったまま、感じたままに書きます。読みやすいように編集する時間が今日はないので、しゃべってる感じで読み手のことをあまり気にせずに書き流していくことをご理解ください。誤字とかあったらすいません。今日は勢い重視でいきます。
そう宣言しといて、いつもとたいして変わらない感じだったらなおごめんなさい。いつも読みやすくないかもねw


そして例によって長いかもしれないのと、最後まで読んだところで何か日常生活とかに有益な内容かどうかはぜんぜんわかりませんので、

・いまヒマ
・仕事の合間にぜんぜん違うこと考えたい
・息抜きに
・もうすぐ3時だし

という場合にお読みください。

何か優先的にやらないといけないことがある人はぜひ、後回しにしてください。


『頭の中の音とか、全部音じゃんねみたいな話』


最近知ったことなのですが

「頭内爆発音症候群」

というものがあるんだそうです。


夜寝入る時や、夜中にふと目が冷めた時に頭の中で「爆発音」が鳴るという症状。痛みなどは伴うわけはないようで、爆発音だけが鳴るとのこと。


なぜこれを知ったかというと、最近MEMORIA (メモリア)という映画を観まして、これがすごい映画だったんですね私的にあくまで私的にです。その理由は後で書きます。



「MEMORIA (メモリア)」の主人公の女性は、夜寝ていると頭の中に爆発音(?)のようなデカい音が発生し、そこから不眠気味の日々になってしまうという始まり方をします。


その音はなかなか文字に起こせないのですが、ボン、というか、ドン、というか・・・。


これが映画の出だしなんですが、これでもう私は掴まれてしまいました。


これに近いやつ、あるじゃん!

と。



<私の場合>
私の場合は爆発音的な「ドン!」とか「ボン!」というような重い音ではなく、もうちょっと電気的な音、「パシ・・ピシ・・・」というような音です。
(怪奇現象的なラップ音とは全然違うのは判別できます。)



くだんの映画は「頭内爆発音症候群」をテーマにしているわけではなく、監督自身が頭内爆発音症候群の経験があり、そこから着想して描いた(一見SFっぽくないけどSFのカテゴリーに入る)お話だそうだ。映画の中で主人公の女性に起こったことや体験する出来事、そして彼女の非常に感覚的な眼差しは、私にとってはとても興味深かったし感じるものがありました。

映画の中でそれ(頭の中の音とか彼女が経験したこと)が「なんだったのか」というのは一応わかる内容になっています。「一応」です。というのも、言葉で説明されるわけではなく、映像、風景、雰囲気、そして音で表されているものなので、見る人によっては「???」しか残らないかもしれないです。





■頭の中でおこること=観察対象


頭内爆発音症候群をネットで調べてみたら、映画の中で出てくるような重低音の大爆発以外にも、金属音とか、ドアを閉めるような音とか、ショットガン的な音とか、ポコン・・とか色々バリエーションがあり、それらも診断する領域に入っているようです。
私の「パシ・・ピシ・・」的なのも、入るのかもしれない。


それは寝入りばなの、もう寝るか寝ないかのきわっきわの、脳波ゆるゆる状態で起きます。


それで、思いました。
確かにね・・・病院いっちゃうかもね、と。


私がその件で医者に行くなんて思いつきもしなかっただけで、人によっては「自分は何か脳の病気だろうか???」とか心配になってしまう人だっているだろうし、程度の問題としても「爆発音」とかしたらかなりびっくりだろうし怖くもなるよね、、だからこそ症状名も診断基準もすでにあるわけだ、と思いました。



<私の場合>
しかし私はですが、瞑想もそうですが、脳波を自分でスイッチ切り替えるとか、変性意識に自分で入るとか、そういうこと面白がって一人で実験してるタイプの人間ですわ。

ですのでその「頭の中の音」も、寝入りばな(寝てはいないギリギリのところ)という言わば瞑想とかなり近い状態の時に起きるので、起こった時はすごく興味深くて、食らいついていたんです(笑)。これ、なんとか再現性出せないかとか、可視化できないかなとか。


でもいつその現象が起こるかとかはわからないので、たまたま来たら「きたー」と思って、できるだけ脳波ゆっくり状態に留めたまま(それ以上速い脳波に覚醒しないようにして)、脳内で何が起こっているか観察することを、機会があるたびにトライしていました。


たまに少し持続できる場合もあるのですが、でもゆっくり脳波に保っているのですぐ寝ちゃうことが多いんです(笑)

まあすぐ寝ちゃうってことは、別にそれで悩まされていないってことでもありますね。しかも翌朝そのことを忘れているから、誰かに話すこともなかったのです。



こういう現象に症状名があって、診断の目安みたいなものが病院のサイトなんかにもちゃんと載っているのを知った時、そうかこれで悩まされている人は一定数いるんだ、と知りました。これを読んでくださっている人の中にも、いるかもしれません。





■よくわからないことは[ストレス]ボックスに


頭内爆発音症候群の原因は、よくわかっていない、という記述もあれば、疲労やストレス、プレッシャーであることが判明してる、と断言的に記載しているところもある。


これも、なんか原因がよくわならないと「ストレスによって」とされるタイプのものかなあと思いつつ、確かに可能性としてはストレスとか、心身の緊張状態で起こることもありそうだなと思います。



<私の場合>
ただですね、あくまでも私にとってのことですが、ずっと瞑想とかやっていると経験的に、感覚的に、「これストレスとかそんなんじゃないな」と思うのです。
(*他の人のはわからないです。あくまでわたしのこと。)


もしかしたら私に関しては「頭内爆発音症候群」じゃないかもしれないという可能性も入れておきます。
(多いにあり、ただとても似ているような気もする。)


じゃあ何なんだ、というのはだいたい目星はついているところがあって、寝るときに脳内でいろんな「接続」をし直している作業音(その際に出る光とか信号)なんだと私は思っております。


生体において「音」はめずらしい現象ではなく、感覚反応とか、神経の働きって普段から音を発しているんですよね。起きている間は周りに雑音が多かったり、何か特定のことに集中していたり(それがスマホ見るとかその程度のことでも、なんとなく何かを考えている程度でも)のせいで、そういった「生体の出す音」は聞こえないんですよね。


あるヨーガの大御所先生(昭和時代のレジェンド先生)は、「(食べたものの)消化音は瞑想時には雑音です」と笑顔で言ってました。「うるさいから食べない」と。もちろん必要な食事はとってるはずですが、ヨーガや瞑想をする段階では体内の消化作業が終了するように調整していたんでしょう。


生命活動の中で、体の中では常時いろんな音が炸裂しているんですよね。私はよくクラスなどで瞑想状態に入ると、自分じゃない人の中で発せられる音、神経の音、感覚の音、あるいは思考の動きの音、いちいちそれが何の音かまで探りませんが(プライバシーかなと思って深入りしないようにしてます)そういうのは、こっちも瞑想状態なので境界線がゆるくなってるのでキャッチしたりします。


でもこれも別に珍しい話や特殊技能の話でもないですよね。「空気読んでる」ってやつに近いです。もうちょっと解像度が高いだけで。パン職人さんがパン屋さんにいけば、見ただけでそこのパンの詳細がわかるような、そんな感じです。整体師さんが人の体を見てパッと詳細がわかるような感じ(性格とか食生活とか職業までわかったり)。ヨーガの先生やってると、人の気をかなり察するし、生体で発している気の音なんかも聴覚を介さないで聞こえてきたりするものなのです。

ただ、パン職人さんも整体師さんも、いちいちそこまで見ないように自身の職業的感覚をオフにすることはあって、純粋にパン買って細かいこと言わずにただ食べたいとか、ソファで腑抜けている人を全員「腰痛になるぞ!後悔するぞ!」と注意するのは面倒すぎるのです。私も「ヨーガの先生スイッチ」が10個あるとしたら、普段人と対面する時には入れて2とか3です。たぶんそれは自然とやっている自分自身の保護で、フルでオンにしたら気がおかしくなるくらい人間は信号・音を発してます。


ただ、寝入りばなみたいな、社会的な注意が解除されている時というのはそういう自分保護スイッチもはずれるんですよね。なのでそりゃ脳の中とか身体内の音だっていろいろ聞こえるのは当然だと思います。




■それにしても特殊な映画だった


映画「MEMORIA (メモリア)」の話に戻ると、すごいよかった。

めちゃ素晴らしい映画だった。

今年のベスト3に入るぞと思った。


なんだけど、誰かれかまわず勧められない映画ベスト3にも入ります。それは今年見た映画に限らず、歴代で入る作品でした。


人によっては「え?」「は?」という感覚しか残らないかもしれない。「なんの映画だよ!」と怒るかもしれない。スローペースすぎてイライラする人も多いだろうな。スローペースなのには映画全体の意図があるんだけど、それはこの映画が「なんの映画なのか」を感じられる人にしかわからない意図だから、やっぱり説明できないし。



たぶん、基準としては「2001年宇宙の旅」を観たことがあるようでしたら、あの最後の不可思議なシークエンスを基準にできると思います。あのラストの流れを観て、言葉にできない感慨(感動)を覚えた人や、他者と共有したくても言葉にはできないものを感じ取った人には、「MEMORIA (メモリア)」は「すごい」かもしれないです。


逆に「2001年宇宙の旅」のあのラストシークエンスが、意味わからず、あのシーンがあることによって「もう観たいと思わない」という人は「MEMORIA (メモリア)」は苦痛の2時間かもです。「2001年宇宙の旅」の場合は、"真理的"とも言える不可解な視覚映像が最後にまとまって出てきますが、「MEMORIA (メモリア)」はそれが最初から2時間続く感じです(笑)


これを読んで、観てみるかどうかはおまかせしますが、私は非常に「感じる」映画でした。




<感じる・観じる>

映画の中で、そのへんに転がっている石ひとつとっても多くの情報がインプリントされていて、その石が経験したすべてのデータ(情景)が読み取れる(見える・聴こえる)人が出てきます。


これ、インドの身体理論とかヨーガの技法だと「サヴィチャーラ・サマーディ」あるいは「サンヤマ」っていう技だねと思いました。

インドのヨーガではそういった人間本来の能力を積極的に開発するような訓練が、(人が忘れてしまったがために)体系的なプラクティスになったわけですが、「サヴィチャーラ・サマーディ」だの「サンヤマ」だのという名前をつける必要など本来なく、それが人間の自然な能力であり、生命の営みのありふれた現象なんだと思うのです。


だって、物はすべて音じゃん。人も音だし。
聴こえて当然なんですよね。


ある意味で人間は、どこまで鈍感になれるかの歴史を今まさに積み重ねてるのですが、反対に、身体の機能性を取り戻していくベクトルもあり、それがヨーガの真髄だったりする。真の信仰の真髄だったりする。哲学することの真髄でもあり、そして芸術の、美的経験の真髄。現代でそれを取り戻すと「多くの人」とは共有できない孤独が待っているのでこの記事もわけがわからないものになってきているかと思いますが、しかたない。私だって「便利」の恩恵に預かって鈍感に生活している側面がたくさんあるから、鈍くなって低能力になっていく人類を責めることはできない。しかし、そうじゃない側面をどうにか人と共有できる可能性や場を作っていく、小さな活動でもやることに意義はあると思っています。


まとまりないですが、思ったまま書きました。


人生長いとも言えるけど、でも短いとも言えますね。残りの人生をどう使うか、よく考えます。今日の記事のような「日常の役に立つ」とかそういうことを度外視した姿勢での講座を、この先増やしていこうと思っています。

「それは何かの役に立つか」を先に知ろうとするのって、すごく消費者マインドですよね。それを軸にしてしまうと成立しないのが「研究」であったり「学問」だと思っています。消費者マインドは永久に真理にはたどり着かないのが事実だと思っております。そしてオタクとかマニアというのは、役立つかどうかなんて関係なく突き進める人のことを言います(笑)、もれなく私も。それでいいと思っています。





読んでくださりありがとうございました。


ナマステ
絵美里

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