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古い古い


 自分よりも風景の方に記憶があるんじゃないかと思うような、通りすがると印象が襲ってくるような場所があって、坂道を上ると急に開ける堤防、似たようなリサイクルショップ、昔も今も点滅してる街灯、九条の立橋、駐車場向かいのマンションなど、悪いことも良いこともそこで起こった。暮らしていると忘れてしまっているけど、そういう印象の強い場所を今日彼は何度も通って、まるで巡礼や、と思っていた。さて原因はどこにある、あった、全部の原因が全部自分にあるという思いは、もしかしたらものすごく自己中心的な考えじゃないの? ちょうどそのとき、彼が昔折った電柱のある交差点を通りすがった。車で雨でスリップしたときだった。電柱はもうすっかり綺麗になっていた。これは原因は、僕や。そういうふうに思って彼は笑うでもなく声を出した、今日はそのときと同じような雨だった。
 例えば襟付きのシャツ、彼はほとんど着たことがなかった、例えばネクタイ、例えば社会保険証、さっぱりした髪型、時々お客さんからもらう、しゅっとしてるとか、若いやええ感じやといった言葉はだから彼の外側をツルツル滑ってどこかへ行ってしまうような感じ。彼はいま会社の規定の中の格好をしているけど、彼はまだ髭も髪の毛もぼうぼうの精神でハンドルを握っていて、白いワイシャツの襟ぐりや袖は現実に汚れている、彼はそこにかろうじて立っている、街、それ、綺麗なような美しいような高級なような顔や洋服や紙袋は実は底や見えないところは汚れている? 雨だから、いつも喫煙所のようになっているJR・阪急の梅田高架下でタバコを吸っている人たちが普段よりたくさんいる気がした。その中に小さなオレンジ色なおばあがそっと手を挙げて立っているのが見えた。おばあは傘を持っていなかった。
 ごめんねえ、酔っ払ってて。今日はたくさん呑んだわあ、ごめんねえ酔っ払いで。おばあがオレンジ色に見えたのはコートも毛糸の帽子もオレンジ色だったからで、乗り込む時には小さな布の鞄もオレンジ色だったのがわかった。勢いよく乗り込んだからおばあは一度寝転ぶような姿勢になってすぐ起き、体の丈夫な人だと彼は思った。十三から、江坂でまた呑んで、それから梅田に来たんだと言った。八十を超えているとは信じられなかった。元気ですねえ、お酒好きなんですねえ、見習いたい、素敵なことですわ、彼はおばあに言った。
 十三へ帰るから、十三大橋を渡ろうと思うけど、いいですか、と彼は言い、おばあはなんでもいいよ、と窓の外を見てた。ちゃんぽん、長崎ちゃんぽんのいい店があった、そこは人もいい店でとても良かった、おばあは自分も店をやってたと言った。店は人や、店は人やとしきりに言い、気持ちよさそうに寄りかかった身体はだんだん斜めになっていった。お母さん、斜めになってしもてまあ、良かったですか、ええ酒やったみたいですね、と彼は聞き、おばあは身体が斜めになったまま、こんなだらしない格好してたら、ちっちゃに怒られるわ、と言った。ちっちゃ? そう、ちっちょや。ああ、父親ですか。
 「ちっちょや、あたしの親父さんね、人間がすごいいい人やったのよ。博打うちで大酒飲みでね、私もそれ受け継いでんのと思うけど、そいでも人をいたわるような優しい人やった。あたしもね、できるだけそんなふうに生きたい、そうなりたいと思ってできるだけそうしたけどね」おばあは手のひらを座面について、そこからまっすぐ伸びた肩の上にあごを預けた姿勢でうっすら目を開けてるようだった。身体はまだ斜めになったまま、外は点々の橋の街灯以外真っ暗な淀川の上だった。「やっぱりね、どう考えても、あたしが取り返しのつかないことをした。なにか本当にいけないことをしたと思う。まだ、思い当たらないのやけどねえ。だからあんなこと、だから原爆がねえ。あたしがいけないことをしたから、あたしやちっちゃが被爆したんやと思ってるのよ」
 彼は彼の原因の種みたいのが弾けてしまったような気持ちになった。それからはああ、とかうう、とかいった声しか出なかった。自宅に着いておばあは一万円札を出した。お金がたくさんありすぎてねえ、おばあは言った。彼はああ、というような声が出た。おばあの出した一万円札は古い古いものだったから、会社の入金機が反応しなかった。彼はでもそれを何回も入れた。

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