死を受け入れるには時間がかかる
注意!
今回は東野圭吾著「人魚の眠る家」を読んだ感想です。
「まだ読んでないよ!」「これから読もうと思ったのに!」
そんな方はブラウザバックお願いします。
それではどうぞ。
心に残った言葉
「この世には、意思統一しなくていい、むしろしないほうがいいということがあると思うのです」
主人公である薫子の言葉だ。
事故により実の娘が脳死状態になってしまった母親である彼女の、この言葉に作品のすべてがつまっている。
「もしかしたら目を覚ますかもしれない」という希望を最後まで、本当に最期まで持ち続けた薫子の思い。
普通に生活している子供と同じように、服を替え、先生に本を読んでもらい、話しかける。
外から見たら、機械につながれた無残な子の姿にすがる狂気の母親だ。
けれども、薫子はただ子供にしてあげられることをしただけなのだ。
ただ、普通の子供と違うのは、彼女が眠っているというだけ。
脳死状態、ということだけにわが子を置かず、生きているということに重きを置いた薫子の思いは想像がつかない。
他人から狂気の沙汰だと言われようと、それを薫子は否定せず受け止めた。
そのうえで最期まで娘を看取り続けた。
娘の気持ちはいっさいわからない。描写がないからだ。それがとてもリアルで苦しくなった。
最後の瞬間だけ、それらしい描写があった。けれども、考えられるのは生きている人間だけなのだ。
葬式は必要か?
大学時代、講義の中で「葬式は必要か?」という話題になった。
都市化が進み、地方では過疎が進む現代において、葬式という儀式の必要性が薄れているのだそうだ。
私は、「葬式なんて必要ない」という意見に驚いた。
核家族化が進み、地方の共同墓地への墓参りもすたれている。
高い料金も問題になっている。それならしなければよい、と言うのだ。
私は必要だと思う。「死を受け入れるには時間がかかるからだ」
葬式という儀式は、亡くなった人を悼む時間、というよりも、いなくなったことを受け止める儀式だと思うのだ。
私の祖父もある日突然、事故で亡くなった。4年がたつ今でも受け入れられない。
もしお葬式を開かなかったら、お墓参りをしなかったら、ただ亡くなったという事実が私を打ちのめすだけ。そこには感情も何も無い。ただ過ぎ去る日常があるだけだ。
薫子の場合はもっと事実を受けとめることが難しかっただろう。娘の身体がそこにあって、機械が助けているとはいえ呼吸をしているのだ。
苦しくも生を実感する作品
物語を通してとても苦しかった。だが、苦しいだけではなかった。
生きているということの儚さと、難しさを実感した。
映画化しているが、まだ観れない。観れない、と思うのは、まだ私が身近な人の死を受け止め切れていないからだろう。