炎上
【あらすじ】
僕が何気なく発信したSNSの投稿は自称フェミニストたちに目をつけられて炎上する。その時感じた大きな怒りを浄化するため僕は復讐を企てる。現実を生きる恋人と、復讐の背中を押す職場の彼女との間で僕の葛藤は出口のない迷路に転がっていく。
最初にその迷路に迷い込んだのは仕事で失敗した日だった。
取り引き先が三十個発注したと思っていたものを僕は十三個だと思っていて、納品する段階になってそのことが発覚した。僕はメールでもその内容を送っていたが、相手の担当者はメールの確認を怠った。そして、大事なメールなのに送った後に電話をよこさない僕の不手際だと言った。自分は間違いなく三十個だと伝えたと言い張り、言った言わないの末に僕の勘違いだったということになった。
僕は上司と一緒に先方に謝罪に行き、そこでたっぷり2時間ひどい言葉を浴びせられた。
上司は「運が悪かったな」と言ってくれたが、僕は自分の中でどうにもしようがない怒りの塊が大きく強固になっていく圧迫感を覚えた。
僕は学校の先生というものがあまり好きではない。小学校のときの担任の先生に覚えのない事件の犯人だと決めつけられてヒステリックに怒鳴りつけられたからだ。それから先生というものを軽蔑していた。
今回の取り引き先の担当からの理不尽な叱責は僕の中のその古い怒りを思い起こさせた。
自分の中で処理しきれない怒りの塊を誰かに共感してもらうことで消化したいと思い、僕はその内容をSNSに投稿した。よくある仕事の苦労や学生時代に感じた理不尽さは多くの人に共感してもらえるはずだった。少なくとも僕はそう思った。しかし、それは全く違った形で取り上げられることになった。
『取り引き先の女性が自分のミスを認めずヒステリックに喚き散らすのを聞きながら、小学校のときの女の担任を思い出しました。理不尽に一方的に怒鳴られていると頭がおかしくなりそうです。』
僕のこの投稿に対して瞬く間にたくさんのコメントがついた。「自分のミスを女になすりつける無能」「女を見下している」「頭のおかしいやつの相手をしないといけない取り引き先の女性や先生が可哀想」
それは今までにない勢いで、僕のスマートフォンの画面は通知の表示でいっぱいになった。
僕は自分の目を疑った。ただ苦しい気持ちを誰かに伝えたかっただけで、少なくとも女性に対する批判のつもりは一切なかった。最初こそひとりひとりに丁寧にそのことを説明していたが、その説明の言葉も切り取られて攻撃の対象になった。
「こいつは反省していない」「都合が悪くなると逃げる臆病者」「性犯罪者予備軍」そんな憎悪を煮詰めた言葉を数分のうちに溺れるほど浴びせかけられた。今まで付き合ってきた女の子たちに別れ際に言われた辛辣な僕への評価コメントが温かい愛の言葉に感じられた。
見なければいいのに僕はそのコメントの流れから目が離せなかった。それは、乾燥した木々についた炎が勢いよく燃え広がる様子によく似ていた。「炎上」とはうまいこと言ったものだと感じた。その炎を見ながら僕は自分の鼓動が速くなっていることに気付いた。すぐには気付かなかったが、今感じているこの感情の正体は「恐怖」だった。
僕の固く尖った怒りの感情は不特定多数の悪意ある言葉にぐしゃぐしゃに握りつぶされ、モラルも終わりもない憎悪の不意打ちによってぺしゃんこに潰れてしまった。残ったのは漠然とした恐怖によく似た灰色の空白だった。
僕は家に向かう電車に揺られながらそれらのコメントを眺めていたが、その中の一つによって恐怖に似た空白は別の感情で埋め尽くされた。
「こんな恥ずかしい人間を世に出した親は責任をとって死ぬべき」
そのコメントが目に入ったとき、今まで生きてきて感じたことのないものが自分の内側に湧き上がるのを感じた。そのエネルギーの強さに眩暈がする。目の奥がチカチカして体の芯が震えるような感覚がある。吐き気がして口をおさえる。
自分は決して真面目に生きてきたわけではない。不誠実なことも自堕落なことも数多く経験してきた。自分に対して悪い評価を下されることには納得できる部分もたくさんある。それでも今の自分があるのは懸命に支えてくれた家族がいたからだ。父と母の笑顔が浮かぶ。
僕はそのコメントに対して夢中で返事を書いた。
「僕は女性を批判するつもりなんてありません。母に感謝しているし、尊敬もしています。女性の恋人や友人だっています。そこまで言われるのは納得できません。」
僕のコメントに対して返事はこなかった。
その代わりに僕の発言を引用する形で「自分が女性に依存している自覚のないミソジニーきもすぎる!!」というコメントを仲間内に投稿し、それに多くの賛同のコメントが集まった。
僕は返事をする気力もなくなり画面から目を離すと真っ黒な電車の窓を眺めた。自分とは思えないほどの疲れ果てたひどい顔をした男がこちらを見ていた。
僕の言葉を都合よく捻じ曲げて、挙句の果てに人の親に死ねという人間がどこかにいる。僕は湧き上がる初めての感情に名前を付けることすらできなかった。
「ドアが閉まります。ご注意ください」
車内アナウンスにいつの間にか最寄り駅に到着していたことに気付き、僕は転ぶように電車を降りる。
自分の内に真っ黒な感情を抱え、何も考えることができずに階段を降り、改札を出て、家に向かう住宅街を歩いた。
そしてふと顔を上げると見覚えのない場所にいた。
*
最初僕は降りる駅を間違えたのだと思った。駅に戻ろうと思い、来た道を引き返すと先ほどと違う景色になっていて現在地が全く分からなくなってしまった。
そこはいつもの家に向かう住宅街によく似ていたが、何かが致命的におかしかった。
暗い道に電灯が均等に並んでいる。ただ、均等すぎる。合わせ鏡の世界のように左右に同じ景色が続いている。
左右に並ぶ家の様子もどこかがおかしい。軒先の飾りが全く同じ家が数軒ごとに表れ、塀によって入り口が見当たらない家があり、その中で白い蛍光灯の光が嫌に明るく輝いている。
確かに明かりはついているのに家の中からは生活音は聞こない。何のにおいもしない。
僕は不安に駆られ自分のスマートフォンを取り出すが圏外になっている。
戻ることもできず、どちらに行けばよいのかも分からず、自分の息が荒くなっていくのを感じる。
山で遭難するのはこんな感じなのかと想像する。でもここは町の中だ。住宅街のど真ん中で遭難するだなんて笑えない話だ。
人通りのある道に出ようと黙々と進むが、見覚えのある景色どころか、人の気配すら一切ない。進むそばから今通った道が全く別の道になってしまう。
僕は不安で頭がおかしくなりそうだった。幼い頃に同じように迷子になったことを思い出した。あのときはどうしたのだっけか。近くの大人が声をかけてくれて知っている場所まで連れて行ってくれたのだ。自分の鼓動が加速するのを感じる。抑えていた焦りや恐怖が体を震わすのが分かる。
僕は我慢できずに走り出した。注ぎ続けた水がコップからあふれ出すように、一度決壊した恐怖は僕をびしょびしょに濡らした。長い通りを駆け抜け、振り返り、角を曲がる。それを幾度か繰り返すと車の走行音が聞こえた。
次の角を曲がると知っている通りに出た。
僕は狂ってしまった呼吸を整えることも忘れて周囲を見回した。
家と駅との中間ぐらいの場所でいつも通る道からは少しはずれていたが、見覚えのある道だった。
今出てきた道を振り返ったが、戻って確認することはできなかった。薄暗いその小路が僕に手を伸ばしているような気がして急いで離れた。スマートフォンを確認すると電波は戻っていた。地図アプリも正常に機能している。僕は自販機で水を買うと一息で飲み干した。それから重たい体を引きずるように家に帰った。
*
それほどゆっくり帰ったつもりもなかったが、家にたどり着いたときには23時を過ぎていた。あの迷路の中で過ごした時間がとても長かったのだろうか。
家の鍵を開けようとするとすでに開いている。恋人が訪ねてきているのだ。すぐにでも横になりたかった僕は小さなため息を吐いた。
「ただいま」
「おかえり。遅かったね。連絡くれたらいいのに」
「ああ、ごめん。今日来るって言ってたっけ?」
僕は革靴を脱いで中に入る。玄関に鞄を放り投げるように置きジャケットを脱ぎ、ネクタイを外す。
「どうしたの?」
彼女は驚いた表情で僕の顔を覗き込む。
「何が?」
「なんだかひどい顔してる」
僕は洗面所に行って手を洗い、鏡に映った自分の顔を見つめる。確かにひどい顔をしている。二日酔いで一日中吐いていた日よりもっとひどい。
「道に迷ったんだ」
「道?どこの?」
「どこだったのか分からないんだ」僕は部屋着に着替えると、冷蔵から取り出して麦茶を飲んだ。
「どういうこと?」
「分からない」
彼女は納得いかなさそうに「ふーん」と言うとソファに座ってテレビの電源を消した。
「ご飯は?」
「いや、いらない。疲れちゃって」
彼女は「えー」と不満そうな声を出す。「食べないで待ってたんだよ」
「ごめん」
「いいけどさあ」
「ごめん、もう眠るよ」
僕はシャワーを浴びる気力もなくベッドに潜り込む。
「私帰った方がいい?」
「どちらでもいいよ。せっかく来てくれたのにごめん」
彼女が何か言っていたが、僕は頭が痛くなって強く目を閉じる。
鋭い痛みがして右足のかかとを触ると、靴擦れして血が出ているのか、ぬるっとしたした液体の感触がした。
*
翌朝起きると彼女の姿はなかった。僕は『昨日はごめん。次はいつ会えるかな』とメールを送った。
『週末行くね!』とすぐに返事が来た。
僕はシャワーを浴びて髭を沿って歯を磨いたが、昨晩の疲れはとれなかった。
家から駅までの道で昨日のように迷ってしまわないか不安だったがそんなことはなかった。僕は注意深く景色を見ながら歩いたが、昨日見たものは何一つとして見つけることができなかった。
会社に着くまで昨日の不思議な出来事について考えていたが、ショックのあまり道に迷ってしまったのだと結論付けた。
そう結論付けると昨日の炎上を思い出した。道に迷ったことに意識がいってしまっていて、そのきっかけになった出来事をすっかり忘れていたのだ。
僕はSNSのアプリを開いた。
僕のアカウントへの誹謗中傷は昨晩ほどの勢いはなかったが、それでもまだ悪意の炎はじわじわと延焼を続けていた。それらのコメントを流し見してみたが、吐き気がして見るのをやめた。
こんなに人の悪意に触れたのは初めてだ、と僕は思った。今までも人と衝突したことはある。ひどいことを言われたことも言ったこともある。仲直りできずにそのまま別れてしまった人もいる。しかし、今僕に向けられている悪意はそのどれとも違った。目的のない悪意。前後のない今この瞬間に相手を傷付けるための言葉。僕はそれらが自分に向けられていることに恐怖を覚えると同時に、昨日の黒い気持ちが再びその輪郭を濃くしていくのを感じた。
これ以上関わることは、ただ自分の心をすり減らすだけだ。僕はアプリを消そうとしたが、思い直して手を止めた。
彼らは僕のアカウントが消えたらきっと満足する。相手が消えるまで、死ぬまでやって、自分の正しさを証明した気になるのだ。関わることの嫌悪感よりも、彼らを喜ばせる材料になることが許せない気持ちが強かった。
僕は炎上しているアカウントとは別のアカウントを作成して新しくログインした。
その新しくつくったアカウントで「親は責任をとって死ぬべき」と発信したアカウントを探し出してフォローした。
アカウントの名前は【まめまめ】といった。プロフィール欄には【人権問題/平等な世界を/思ったことをありのまま】と書いてある。頻繁に更新していることも分かった。
今ならまだ引き返すことができるという感覚がある。今ここで「やっぱりやめた」とアプリを消してしまえば、僕が浴びたひどい言葉も、今心に巣くう黒い気持ちもいつか時間が忘れさせてくれるかもしれない。
車で走っていると道に何か分からないものが転がっていることがある。多くの場合は何かごみのようなものだと思って見過ごす。車を止めて戻ることはしない。ただ、それが肉の塊のような何かだった場合に、戻って確認してみたくなることがある。絶対に見ないほうがいいし、見ても何もできないことは分かっているのに、自分の中の黒い衝動に身を任せてわざわざ車を止めて戻ってみたくなることがある。
今僕が感じるそれも同じような黒い好奇心だった。その好奇心に手を引かれ、僕は【まめまめ】の投稿を読み始めた。
*
【まめまめ】は主に男尊女卑の思想がある発言に対して攻撃をしているようだったが、ほとんどその要素が感じられないものに対しても難癖をつけて晒し上げ、同様の思想の仲間たちとともに相手が沈黙するまで、いや沈黙してからも執拗に攻撃し続ける。
僕の発言もいまだに取り上げられており、更新がない僕のアカウントに対する悪辣としたコメントが続いている。
それを見ているうちに整理のできない黒い感情が再びゆっくりとふくらんでいく。
次から次へと同じような意見が僕の心を黒く染めていく。【まめまめ】だけではない。同じような悪意の塊がうじゃうじゃと存在しているのだ。大きな石をひっくり返したときにたくさんのムカデが這い出てくるように、そこには触れるべきでないものがうごめいている。
それから僕は毎日そのアカウントの発信を追った。見るたびに吐き気がしたがそれでも続けた。
彼らの言葉で傷付いた人が泣き寝入りするのは違うと思った。彼らに自分が正しいのだと思わせたくなかった。僕の怒りと悲しみをなかったことにしたくなかった。この黒い感情を抱き続けることが復讐だと思った。
だからどんなに苦しくても、自分の怒りが冷めないように、疲れてしまって風化してしまわないように毎日見続けた。
*
週末になり恋人が訪ねてきた。
一緒に食事をして、ソファに座ってテレビをつけながらお互いがスマートフォンをいじっていると彼女が覗き込んできた。
「何やってるの?」じゃれるように僕の肩に頭を乗せる。
「特に何もしてないよ。何かする?映画でも観ようか」
彼女は「んー」言いながらリモコンを操作したが、めぼしいものがなかったのか途中でやめてしまった。
「最近スマホいじってること多くない?」
僕はスマートフォンを置くと彼女に向き合った。
「そうかもしれない」
「スマホで何してるの?」
「実はSNSで炎上したんだ。炎上っていうのがどの規模からそう呼ぶのかは分からないけど、感覚的に」
彼女は安堵と驚きの入り混じった顔をした。
「意外。なんて言ったの?」
僕はことの顛末を説明した。仕事でミスがあったこと、個人的には相手にも責任があると感じていること、理不尽な叱責を受けたこと、その内容の投稿が意図しない形で炎上したこと。新しいアカウントをつくったことだけは言わなかった。彼女がそれを良しとしないことがなんとなく想像できたからだ。
彼女はそれを聞きながら何度か小さな質問をしたが、話しを聞き終わると「大変だねえ」と言った。
「何にでもかみつきたい人っているよね。もう忘れちゃった方がいいよ」
そういって僕の背中をさすった。彼女の手はとても優しくて、心優しい鳥の真っ白な羽のように感じた。
「でも許せないことも言われたんだ」
「なんて?」
「言いたくないくらいひどい言葉だったんだよ」
「そうなんだね」彼女は少し考える仕草をしたが、それから明るい表情をつくった。
「そうかもしれないけど考えたって仕方ないじゃない。もっと楽しいことを考えようよ!」
「うん、そうだね」
僕の怒りは僕にしか分からない。僕は彼らを許す気はないし、この怒りを忘れるつもりはない。
その後彼女がしてくれた楽しいであろう話は僕の耳には入ってこなかった。
*
その日ベッドの中で【まめまめ】の更新を追っていると、話題のレストランに行ったという写真付きの投稿があった。
色とりどりのサラダやピザ、名前の分からない肉料理が船をかたどった器に盛りつけられて並んでいる。
メニュー表も映っていたが、波をイメージしているのだろうか、青く高級感のあるデザインで、料金も決して安くないものばかりだった。
僕はこの投稿を見ながら、【まめまめ】が自分だけ幸せに過ごしていることが許せなかった。誰彼構わず人を傷つける言葉を投げつけておいて、自分は流行りのレストランで悠々と食事をしている。そんなことが許されていいのだろうか。
僕は目を閉じて深呼吸したが、それでも黒い気持ちは膨らみ続けた。僕は目を開いて暗闇を見つめた。自分の心が外に染み出て拡大したような暗闇の中で僕は眠ることもできずにただ夜が明けるのを待った。
*
「最近集中できてないよな」外回りから戻って、自分のデスクに腰を下ろすと隣の先輩に声をかけられた。
「そうですか?」
「ああ」先輩は缶コーヒーを一口飲むと「いる?」と言って僕に差し出した。
「いりません」と僕が言うと先輩は笑った。
「今日まだかかる?ラーメンでも行くか?」そう言って先輩はラーメンをすするジェスチャーをした。
僕は断ろうとしたが「いいからいいから」と言って強引に約束させられた。
仕事が終わると会社の近くのラーメン屋に入った。「いいからいいから」というので先輩に食券を買ってもらった。
「向こうの責任だと思うけどな」席に着くと先輩が言った。
この前の取り引きでのエラーは相手の確認不足だというのが僕の認識だった。だから「そうですよね」と言った。
炎上の方にばかり気がいってしまっていたのですっかり薄れていた怒りではあったが、それでも肯定してもらえたことが嬉しかった。
「自動車事故みたいなもんだからな、そういうのは。警戒してても当たっちまうときはある。それでも、なるべく当たらないように、なんども右左を確認して、手を挙げて横断歩道を渡るしかないよな」
「でもなんかそれで僕だけ悪者みたいなのはなんかもやっとします」
先輩はラーメンを一口すすると、おろしニンニクを追加してもう一口すすった。
「お前の中では相手が悪いんだろ?で、それを分かってくれる優しい先輩もいる。その先輩が餃子をくれる。それでいいんだよ」
そういって餃子の皿を僕に寄せた。
「それに、どちらが悪いかはそれぞれの中にしかないんだ。感情に審判はいないからな。自分の判断でいいのよ」
僕は餃子をかじると先輩の顔を見た。
「先輩は抑えきれないくらい頭にきたときってどうやって処理していますか?」
「ランニングに行くか、カラオケに行くか、誰かに話を聞いてもらうか」
「それでもすっきりしなかったら?」
「俺は我慢しちゃうけど、相手に直接伝えるっていうのが一番すっきりするのかもな。同僚とか家族なら今後の付き合いもあるから難しいけど、もう二度と関わる気がないならどう思われたっていいもんな。俺は気にしちゃうけど」先輩はそういって笑うと一つ残った餃子を口に放り込んだ。
先輩と別れた帰り道で、僕は自分の怒りを相手に直接ぶつけることを考えた。
【まめまめ】に対して怒りを怒りのままぶつける。【まめまめ】はどう感じるだろうか。
そんなことを考えながら改札を出ると、なにか様子がおかしいことに気付いた。
僕の進行方向に人の気配がない。音もなくにおいもない。
今度は前回ほどぼーっとしていたわけではない。自分の後ろにはまだ駅前のにぎやかさがある。今引き返せば迷わずに済むかもしれない。
それでも僕は進むことを選んだ。この道の先に自分の家があるのだ。どうして僕が道を変えないといけないのだろうか。
悪い予感は当たり、進むにつれて音が消えていく。一つ角を曲がるともう雑踏の音は聞こえなくなってしまった。
革靴の底の固い音だけが聞こえる。何かが音を吸っているのか、音は響かずバラバラの人間の足音のように聞こえる。
僕は周りを見回す。もしかしたら僕の見間違いでここはいつもの道かもしれない。普段よく観察していないだけで、何も間違っていないのかもしれない。
家々や電柱に目を向けていた僕はふと顔を上げる。そこであることに気付いて再び焦りが強くなる。
空に月が見えないのだ。
見る角度を変え、建物の裏に回っても月は見えない。前回は曇っていたが今日は確かに晴れていたはずだ。
しかしもう引き返すことはできない。あとはもう進むしかない。僕は恐怖に支配されないように、先ほど考えた自分の怒りを相手にぶつける姿を想像する。
どうやって伝えたらいいのだろうか。SNS上ではだめだ。また一部を切り取られて曲解された挙句に仲間たちと結託して攻撃される。
では直接会いに行くのか?
【まめまめ】がどんな顔をしているかも分からないが、直接会って怒鳴りつけるところを想像する。【まめまめ】は涙を流して反省し、地面に頭をこすりつけて僕に謝罪する。
涙を流している【まめまめ】を上から見下ろしている自分を想像する。この先はどうしようか。これで許してやろうか。
そんなことを考えているといつの間にか自分の知っている道を歩いていた。
振り返って空を見上げると月も見えている。
なんだか僕は何かに打ち勝ったような気がして、胸を張って家に帰り、熱いシャワーを浴びて深く眠った。
*
年度の途中だったが人事異動があり、今まで別の事業所にいた女の子が僕らの部署に配属された。
歳が近いということもあり、上司から僕が指導する係に任命された。簡単に自己紹介して自分の営業に同行させる。
暗めの茶色のロングヘアに整った顔立ち、印象的な大きな瞳。スーツ越しにも大きな胸が分かるふくよかな体型で、化粧は質素だった。優しい丁寧な喋り方をし、僕よりも身長が低いため、見上げるように上目遣いで喋った。僕は彼女に感じる好奇心が、なんだか恋人への裏切りのような気がして極力事務的な会話しかしないように努めた。
「なんだか怒ってますか?」
会社の最寄り駅で電車を降りて、歩いているときに彼女は言った。
僕は彼女の方を振り向く。もしかしたら冷たくしすぎたかもしれない。悪いことをしてしまった。
「いえ、まさか。どうして?」
「なんとなくそう感じただけです。私のことじゃなくて、何かもっと別のことでずっと怒っているような」
僕は驚いた。そんなに態度に出ていただろうか。取り引き先でも笑顔で商談をしたし、彼女との会話も差し障りなかったつもりだった。
「私も怒りっぽいから敏感なのかもしれません。当たってました?」彼女はそう言って笑った。
「うん、まあ、少し最近嫌なことがあって。でもよく分かりますね」
「私もこの前嫌なことがあったばっかりなんです。大学の友達が、あ、私の話してもいいですか?」
「もちろん」僕は勢い込んで喋りだす彼女がなんだか可笑しくて微笑んだ。
「この前、大学のときの友達グループで、ひとり結婚したんですよ。おめでたいですよね?」
僕はうなずいて肯定する。
「それなのに、他の子たちが結婚した友達の陰口で盛り上がって、旦那が不細工だの貧乏だの言って。そういうの嫌だから参加しなかったら、そのあとSNSで私の悪口も言われてたみたいで。もう最悪ですよ」
想像してみたが、最悪だろうなと思った。
「最悪ですね」
「そうなんです。それで我慢できなくなっちゃって、」
彼女はそこで言葉を区切って恥ずかしそうに唇を噛んだ。
「結局どうしたんですか?」
「はい、ひとりひとり電話して文句言ってやりました」
僕は穏やかな彼女が電話口で一生懸命文句を言っている姿を想像したらまた笑ってしまった。
彼女も笑った。
「すごいな。なんて言ったんですか?」
「性格悪い人無理だからもう関わらないで!って言って、言い返される前に切りました」
そう言ってもう一度笑った。彼女の笑顔はとてもチャーミングだった。
それ以来仕事の話はもちろん、それ以外の話もするようになった。
営業終わりのタイミングや、仕事終わりの帰るタイミングが重なると一緒に歩きながら話した。
恋人への小さな罪悪感から、僕から積極的に声をかけたりタイミングを合わせたりすることはなかったが、それでも彼女と話をするのは楽しかった。
彼女は話の引き出しが豊富だった。僕の好きな古い映画やイギリスのロックミュージック、少年向けの漫画やゲームのこともよく知っていたし、同じことで笑って、同じことで怒ることができた。
僕は彼女なら理解してくれるような気がして、炎上の件の怒りを伝えた。
「それは許せないね!私なら直接会って水ぶっかけるけどな!」
僕の話が終わると彼女は自分のことのように怒りをあらわにした。
「ねえ、」僕はふと自分の黒い部分をさらけ出したい衝動に駆られた。もしかしたらこの人なら理解してくれるのではないだろうか。そんな甘い期待が鼻先をかすめた。
「ねえ、もし僕がその人に仕返ししようって考えていたらどう思う?」
彼女は目を大きく見開いた。
「絶対やった方がいいでしょ!人を傷付けておいて何の罰もないなんて絶対許せない!」
その言葉を聞いて僕は大きな安心感に包まれた。自分の黒い感情が間違いではなく、自分が汚い存在ではないと、そう認められたような気がした。
僕は洗いざらいを彼女に語った。どうしても許せないこと、その気持ちを風化させたくないこと、怒りの行き場が見つかっていないこと、できることなら本人にぶつけてやりたいこと、弱い部分も汚い部分も全て話した。
彼女は黙って頷きながら聞いてくれた。
風が吹くと、柔軟剤なのかシャンプーなのか僕には分からなかったが、彼女からいつかどこかでかいだことのある甘い香りがした。
そして彼女と別れた帰り道で僕は三度目の迷子になった。
*
三度目も今までとほとんど同じだった。月がなく、星もなく、入り組んでいて、歩くそばから形を変える。唯一違ったのは、電灯の数が減ったことだった。今までは左右均等に並んでいて、夜道だというのに先を見通すことができるくらい明るかった道が、少し暗くなっている。
それでも僕に不思議と焦りはなかった。前回も自分の思考に集中していればいつの間にかこの道を抜けることができていた。今回もそういう実感があった。自分が正しいと思う方向に進んでいけば出口にたどり着くという確信があった。
ただ無心に僕は進んだ。少し先の暗闇をにらみつけるように見据えて、大きな歩幅で一歩ずつ歩いた。
ふと、僕は先ほどの彼女のあの甘い香りを感じたような気がして振り返ったが、そこには闇が広がるばかりで、左右の住宅は白い明りをつけながら無言で僕を取り囲んでいた。
進むにつれて甘い匂いが強くなっていくような気がした。その匂いがすると僕は嫌でも彼女のことを思い出す。僕を見上げる潤んだ瞳、ツンと尖った唇、流れるような髪、ワイシャツに透ける肌の柔らかさ、大きな胸のふくらみ。
「私なら水ぶっかけるけどな」
彼女の声が聞こえた気がして振り返るといつの間にかいつもの帰り道に自分が立っていることに気が付いた。
*
家に着いてスマートフォンを見ると恋人から電話がきていて、僕は急いでかけなおした。
電話に出た彼女の声は不機嫌だった。
「今日何の日か分かる?」
挨拶もなく彼女は言った。僕は少し考えたが思い出せない。頭が重く何も考えることができない。
「いや、ごめん。なんだっけ」
「付き合った日だよ」彼女に言われて僕は思い出す。そうだ。どうして忘れていたのだろう。この前話題にしたばかりだったことも思い出した。
「今から会うのって難しい?」彼女が遠慮がちに言う。
僕には今から彼女が来るのを待って、その後一緒に過ごす元気は残っていない。
「ごめん疲れてるんだ」
「仕事?」
「仕事もそうだし、この前話した炎上のことを引きずっているのかもしれない」
「そんなこと考えてるならもう少し私たちのこと考えてよ」
そんなこと、と言われたことに僕は傷付く。
「ごめん」
「不安なの」
「ごめん」
彼女のつくる沈黙に向けて「また連絡するから」と声をかける。
しばらく待っても返事はなく、唐突に電話は切れた。
電話が切れたあとの沈黙に僕は用心深く耳を澄ましてみたが、そこから何かをすくい取ることは今の僕には難しかった。
スマートフォンを置いて部屋着に着替えると、シャワーも浴びずに布団にもぐって僕は気を失うように眠った。
*
外回りに出るタイミングが一緒になった彼女と挨拶を交わすと、彼女は「調べみたけどむかつくね」と言った。
「私も【まめまめ】を検索して見てみたけど、言ってることめちゃくちゃだし、言葉汚いし、最悪だった。しかも同じような人がいっぱいいるのも最低」彼女はそう言うと肩を持ち上げて顔をしかめて見せた。
「仕事の話もしたいし、良かったら今日の夜ご飯に行かない?」
もし恋人と連絡がとれればそちらを優先したいことを伝えると、それでも構わないというので仮の約束をした。結局恋人への連絡はつながらず、僕は彼女と食事に行くことになった。
良いレストランがあるのというので、電車に乗って彼女が一度行ってみたかったというイタリアンレストランに向かった。
レストランは海をテーマにしており、天井から海賊船と地球儀がつるされている。店員さんたちは海賊や船乗りのような恰好をしており、小さなテーマパークのようだった。店は繁盛しており、人々の話し声が気持ちよく僕らを二人きりにしてくれた。
仕事の相談や職場の人の噂話をするうちに僕と恋人の話になった。
「うまくいってるの?」彼女はグラスを傾けながら言う。僕がアルコール度数の低いカクテルを注文すると、彼女も同じものを注文した。
「今はうまくいってないと思う」
「そうなんだ」
僕は肩をすくめる。きちんと会って話をしないといけないことは分かっているが、今日恋人と連絡がとれなかったことにどこか安心する自分もいた。
「別に好きじゃないわけではないんだよね。でも今は炎上のことがあるからそれ以外のことを考えられないよね」
僕は肯定する。彼女は細い指でグラスの水滴を拭きとって濡れた指をおしぼりにこすりつけた。
「やっぱり直接文句言ってやるしかないんじゃないかな。別アカウントで文句言ってみたら?」
彼女は左側の髪を耳にかける。きれいな形の耳があらわになり、控えめなピアスが小さく光を反射した。
「いや、それをやっても結局そいつの仲間たちから攻撃されそうで」
「確かに」彼女はうなずく。
「せっかくやるならすっきりしないと意味ないもんね。じゃあ、直接言いに行くしかないんじゃない」
僕は彼女の顔を見る。冗談だと思ったけれど、彼女の顔に茶化すような色は一切ない。僕も真剣に応える。
「どこに住んでるかもわからないのに?」
「投稿から特定するとか」
「そんなに簡単じゃないさ」
「今見てみたら?」
「そんな気分じゃないよ」
「怒りは収まってきた?」
「どうかな」
「私なら絶対許さないけどな」
そう言って彼女は波をモチーフにした青色のメニューを眺めて、小舟をかたどった器に入ったアイスクリームを注文した。
僕はその船や海をモチーフにしたデザインをどこかで見た気がして、恋人と出かけたレストランを思い起こしてみたが、該当する記憶は見つからなかった。
*
僕が家に帰りドアを開けようとすると鍵が開いていた。中に入ると恋人がソファに座ってテレビを観ていた。僕に気付くとテレビを消したがこちらを振り返らない。
「なにしてたの」
疑問符のない冷たい質問だった。僕は慌てて自分のスマートフォンを見る。彼女からの着信とメールが入っている。さっき確認したときには入っていなかったはずなのに、こうして形に残っているということは僕の方に問題があったということだ。僕は「ごめん、気付かなかった」と彼女の背中に向けて言う。体の芯がいっきに冷えていくのを感じる。
「職場の人とご飯食べて帰ってきただけだよ」
「女の人?」
彼女はこちらを見ない。
「そうだけど別にそんなのじゃないよ」
「なにそんなのって?」
特段大きな声を出しているわけじゃない。それでも彼女の声の不機嫌さは手に取るように分かる。僕は返答を間違えたのだ。
「君が聞いたんじゃないか」
「私はただ女の人かどうか聞いただけじゃない」
彼女は立ち上がってこちらを向く。目には怒りの色がある。
また怒りか。僕は急激な眠気を感じる。どうして最近僕の周りはこんなに怒りだらけなのだろう。なにもかもが嫌になってくる。その勢いのまま僕は口を開く。
「じゃあなんの目的があってそんなこと聞くんだよ」そう言って僕はため息をつく。ため息をついてはいけない場面だということはよく分かっていた。それでもどうしても抑えることができなかった。
永遠にも感じる一瞬の沈黙のあと、「帰る」と言って彼女は僕の横を通り過ぎた。
彼女が出ていこうとするのを引き留めようとするが、「もういい」と言って出て行ってしまった。
バタンというドアの音がいやに大きく聞こえる。だからこそ、その後の静けさが重苦しい。
僕はジャケットを脱いでハンガーにかける。
そのとき机の上に置かれた小さなプレゼントボックスに気付いた。
「誕生日もクリスマスもプレゼンなくていいんだけど、ふたりの想いが通じ合ったこの日だけはお互いへの気持ちを忘れないようにプレゼントを贈り合うっていうのはどうかな!」
懐かしい彼女の姿が頭に浮かぶ。花が咲いたような笑顔で僕を見つめている。
どうして僕は何も用意しなかったのだろうか。どうして自分から会いに行かなかったのだろうか。
さっき彼女は泣いていた。どうしてもっときちんと引き留めなかったのだろうか。
僕は急いで彼女の後を追って家を出た。マンションの階段を下りて、路地を見回す。駅の方に向かって走る。走りながら彼女に電話をかける。どうしてもっと彼女との時間を大切にしなかったのだろう。
駅まで行ってみたが、結局彼女を見つけることはできなかった。駅でもう一度電話をかけたがつながらない。
『さっきはごめん。僕が悪かった。今から会えないかな』そうメールをして、しばらく駅の人通りを眺めていたが、彼女から返事がくることはなかった。
走ったせいであがっていた息も落ち着き、諦めて家に帰ろうとしたときにスマートフォンが鳴った。
*
電話は恋人からではなく職場の彼女からだった。
「さっきはありがとう。私の方でも例のアカウントの投稿見ていたんだけど、気になることがあって。あ、今電話大丈夫?」
「うん」僕は駅前の広場にあるベンチに腰かける。
「【まめまめ】の投稿って見てる?」
そういえばこの数日見ていなかったことを思い出す。
「最近少し見れていないけど」
彼女は「そう」と言うと構わずに続けた。耳元で彼女の甘い声が聞こえると耳がくすぐられるような感覚がある。
「2週間前くらいに【まめまめ】がレストランに行ったっていうのを投稿しているんだけど、その投稿見た?そのレストランって今日私たちが行ったレストランじゃない?」
そうだ。僕は突然後ろから殴られたような衝撃を感じる。さっき店で見た船の器も波のメニューも一度見たことがある。だから見覚えがあったのだ。どうして僕は気付かなかったのだろうか。何度も見た写真だ。間違えるはずがないのに。僕は歯ぎしりした。
少し時間が経ったことで僕の怒りは薄れてしまっていたのだろうか。そうならなんて情けない。
僕は自分の中に再び黒い気持ちが膨らむのを感じた。膨らんだ塊はじわじわと熱を帯びていく。
「そうだ。間違いない」
「あそこのお店の人と友達が知り合いだから何か情報がつかめないか聞いてみるね。急いで伝えたくて。それじゃあ」
そういって彼女は電話を切った。僕は立ち上がって周りを見回す。顔も分からないのだ、今探しても見つかるわけがない。でも、ずっと会いたかった相手がこの近くいるかもしれない。もしかしたらどこかですれ違っているかもしれない。その事実は僕を高揚させた。
僕は家に向かって歩きながら、自分の拳が固く握られていることに気付いた。意識してもほどくことができない。爪が食い込んで鋭い痛みが走る。それでも僕の拳は緩むことはない。
もし居場所が分かったとしてどうする?会いに行くのか?会ってどうする?
「私なら直接会って水ぶっかけるけどな」
彼女が言っていた言葉を思い出す。耳元で喋る彼女の声を思い出すと耳が熱を持つような気がする。
そうか、それも悪くないな。
そう思って顔を上げると僕はまた見知らぬ場所にいた。
*
今回は過去三度迷い込んだときと大きく違っていた。今度は音がある。いや、音に感じているだけで、もしかしたら振動かもしれない。ドッドッドッと大きな振動が聞こえる。
また、匂いもある。どこかでかいだことのあるような匂いだ。微かすぎて判別することができないが、どこか花の匂いのような甘さを感じる香りだ。なぜだか僕は冷たくて白いシーツを思い起こす。シーツの滑らかな感触が手によみがえる。シーツの感触をたどっていくと、高校生の頃に初めて付き合った女の子のことを思い出す。
誰かと付き合うことが何をすることなのか、当時の僕にはよく分かっていなかった。一緒に学校から帰って、一緒に勉強をして、一緒に映画を見て、抱き合ってキスをすることが「付き合う」ということだと思っていた。そんな中で周囲のカップルが男女の仲になったという話を聞いた。男友達からその話を聞くうちに、僕は強い性欲と好奇心を覚えた。彼女も僕と特別な関係になることに対して前向きに考えてくれ、彼女の両親が家にいない日を確認して、何日も前からその約束をしていた。
彼女と一緒にベッドに入る。普段微かに香る彼女の匂いが部屋中から強く感じられる。僕はそれだけで下腹部に強い熱を感じた。
横になって、抱き合って、頭をなでてキスをする。僕は夢中になって彼女の胸を触る。下着とセーター越しに触ったそれは思い描いていた柔らかいものではなくごわごわしていた。それでもその行為自体に僕は興奮した。
僕は彼女の制服のスカートに手を入れ下着を脱がせようとする。彼女が「ゆっくりして」と言ったが、自分の欲望を抑えることができずに、彼女に構わず下着を脱がせる。彼女は僕にしがみつき、荒い息で「待って」と繰り返す。僕は彼女の言葉を聞かずに、彼女の中に指を入れる。
「痛ッ」という小さな悲鳴で僕は我に返る。真っ白なシーツには小さな血の跡がついている。彼女は涙に覆われた目で僕を見つめている。僕は急いで謝るが彼女は何も答えない。慌てて抱きしめるが彼女の腕はだらりと垂れ下がったまま僕を抱きしめ返すことはない。僕から距離をとって布団にくるまる彼女に何度「ごめん」と声をかけても、彼女からの返事はなかった。
僕は逃げるように彼女の家を後にする。
そのとき流れた血と同じ匂いがする。鼻にこびりついて離れなかったあの甘い匂いがするのだ。もしかしたらこれは血の匂いではないのかもしれない。いつも明るかった彼女から香った花のような柔らかな匂い。しかし、僕にはそれは血の匂いとして脳に焼き付いている。
ドッドッドッという振動が聞こえる。この振動は脈打つ僕の心臓の音か、それとも僕の心臓から流れる血の音か。それとも彼女が流した血の音か。
僕は混乱して走り出しそうになるのを必死でこらえる。しかし歩みは徐々に早まっていく。それを止められない。今すぐにここから抜け出したい。甘い花の匂いで充満したこの場所から。
ーまた逃げるのか?
その時大切に思っていた恋人から僕は逃げた。お互いが何を求めていて、僕は何を間違えたのか、そのことをきちんと確認することもできたはずだった。それでも僕は逃げ出した。よれたワイシャツを着て、底のすり減ったスニーカーを履いて、彼女の家から、彼女から、走って逃げたのだ。
またそうやって怖がって逃げるのか?
「私なら水ぶっかけるけどな」
彼女の言葉が頭に響く。
僕は怖がってなんかいない。僕の家族は死ぬべき人間じゃない。僕だってそうだ。死ぬべき人間なんていない。
ー本当にそうか?
誰もが一生懸命に生きている。
ー本当にそうか?
ただすれ違うことがあるだけだ。
ー本当にそうか?
価値のない人間なんていない。
ー本当にそうか?
僕はただ、自分と自分の周りの人が笑っていられればそれで…。
ー彼女は笑っているか?
いや、彼女は泣いていた。でもそれは僕のせいだ。
ー本当にそうか?
…。
ーいつからこうなった?
…。
ーどうすればいい?
…。
ーどうしたい?
…。僕は…
車のクラクションが聞こえて驚いて顔を上げると、僕は横断歩道に足を踏み出しているところだった。信号は血のように赤く光っている。僕は慌てて一歩下がる。そのまま小走りで自分の家まで向かう。一目散に、何も視界に入れないように。
僕は家に入ると目を強く閉じて、布団の中で震えながら夜が明けるのを辛抱強く待った。
*
翌朝起きると熱があった。体が重い。水を飲んで洗面所に立って髭を剃ろうとするが、その活力もない。職場に連絡して一日休みをもらうことにした。
休めることが分かると少し気が楽になり、ベッドに寝転んでスマートフォンを確認する。恋人からの返事はない。
そのままいつの間にか寝てしまい、着信音で目が覚めた。
職場の彼女からのメールだった。
『今日お休みしてるけど大丈夫?何か買っていこうか?』
少し寝たことで体調は逆に悪くなった気がする。食べるものも何もなく、頼れる人もいない。
『ご迷惑じゃなければお願いします』
そう返事すると僕はまた少し眠った。
目が覚めるともう夕方前になっていた。体のだるさもなくなっており、熱もだいぶ下がっていた。
これなら看病は必要ないなと思って職場の彼女にその旨を連絡するが、電話はつながらなかった。
『体調がよくなったので来てもらわなくて大丈夫。振り回してごめんなさい』
そうメールを送ったが、返事は来なかった。
顔を洗って着替えると気分がだいぶよくなった。僕は机の上に置かれたままのプレゼントボックスを持ち上げた。四角くて小さくて真面目そうで優しい色をしている。僕の恋人にぴったりの箱だった。
僕は自分の買い物用の大きなトートバッグにそのプレゼントボックスを入れた。開けてしまおうかとも思ったが、ふたり一緒のときに開きたかった。そしてそのときには彼女のためのプレゼントも必要だった。
僕はそのトートバッグを手に、簡単に支度をすると、スニーカーを履いて外に出た。
マンションの階段を降りると、外は夕方の色になっていた。それがしっかりとした僕の知る夕焼けであることに安堵する。陽の光があり、人の気配があり、風の音がする。そんな当たり前のことに僕はなんだか感動した。
ふたつ隣の駅にある彼女の好きな雑貨屋へ向かう。道すがらスマートフォンに入った彼女との写真を見る。別にたいしたことのない写真だったが、いつだって楽しそうな恋人が映っている。そして笑顔の僕も映っている。なんだか久しぶりに自分の顔を見たような気がする。写真の中の僕は幸せそうに笑っている。今の僕とはずいぶん分厚い透明な壁で隔絶されたところにいるような気がする。
雑貨屋に着くと彼女の好きそうな品を探す。彼女は猫をモチーフにしたものが好きだ。
僕は店の中を何周か回ったあとに三日月をモチーフにしたピアスと猫のイラストの入ったハンカチを買った。
「プレゼント用ですか?」
店員に聞かれて、僕は迷わず「そうです」と応える。
これまでの謝罪の気持ちと感謝の気持ちがしっかりと包装されることを願って、僕はラッピング作業を見つめた。
紺色の包装紙に金のリボンが結ばれた四角いプレゼントボックスを受け取る。手提げはもらわなかった。彼女が残していった状態と同じこの状態で渡したかった。それをそのまま持ってきたトートバッグにしまう。
プレゼントボックスの四角さは僕の心に線を引いてくるようだった。良いものと悪いもの、嬉しいことと悲しいこと、正しいことと間違っていること、直線と直角でできたそれは僕に規律をもたらしてくれるようだった。
家に帰って彼女に連絡をしてみよう。それでもつながらなければ僕はただひたすらに辛抱強く待とう。そう思った。
次の角を曲がれば家に着くというところでスマートフォンが振動した。
僕が急いで電話の表示を見ると職場の彼女からだった。僕は立ち止まって電話に出る。
僕が口を開く前に彼女が一息に言葉を発する。
「あ、もしもし、【まめまめ】の名前が分かったの。【遠藤サヤカ】っていうみたい。実名で他のSNSもやっててそっちの投稿から家の場所もだいたい分かったよ!会ってからでもよかったんだけどすぐに伝えたくて!知りたい?」
僕は眩暈がした。昨晩までのことは熱のせいでみた悪夢のように感じてしまっていたのかもしれない。いや、そう思い込もうとしていたと言った方が正しいかもしれない。
それでも僕が敷いたレールだ。彼女にはきちんと感謝を伝えて、それからどうするかはじっくり考えたい。
「わざわざ調べてくれてありがとう。ところでさっき連絡したんだけど、体調が良くなったからもうお見舞いは大丈夫なんだ」
「え?」
一瞬の沈黙。彼女には申し訳ないことをした。でも今は恋人ときちんと向き合う時間をとりたい。
「ごめんメール気付かなくてもう来ちゃった」
どこからか甘い匂いが漂う。その匂いは僕の鼻に強く絡みつく。僕は周囲を見回す。何か様子がおかしい。
あと一息で家にたどり着くところで、僕はまた迷路の中に迷い込んでいた。
甘い匂いをたどるように歩き出す。電話の向こうの彼女は喋らない。その沈黙からは何も見つからない。もしくは電話の向こうから彼女の方が何かを探しているのだろうか。
来ちゃった?どこにいるんだ?どちらにせよ今僕は迷路の中にいる。ここにいる限り彼女と会うことはできない。
そういえば電話は?なぜつながるんだ?
僕は角を曲がる。本来僕の家があるべきはずの場所なのに、そこには何も見当たらない。
代わりに道の真ん中に彼女が立っていた。僕が出てくることを知っていたかのようにこちらを見て微笑んだ。
僕はあまりの驚きに体が大きく揺れる。呼吸の仕方を忘れる。
「どうしてここに?」直接声の届く距離なのに電話越しに彼女に話しかける。
「どうしてって、ごめん、来ないほうが良かった?あ、彼女さんがいる?」
最初に正面の彼女から、次に電話越しに、少し遅れて重なるように、彼女の声が僕の鼓膜を二重に揺らす。
「そうじゃなくて!」僕は大きい声を出す。今いる場所が夢で、目を覚ますために大声を張り上げるかのように。
「どうして君がこの迷路の中にいるんだ!」
自分のあらゆる毛穴から汗が噴き出すのが分かる。息がうまく吐けない。
「どういうこと?」
「君がやったのか!」
僕は彼女に恐怖する。それは迷路の中に彼女がいたからではない。こんな状況の中でも彼女が魅力的だからだ。濡れた瞳、柔らかな身体、優しい声、明るい微笑み。そのことに僕は戦慄する。
「何を言っているのか分からないけど、何か迷っているのね?」
彼女はゆっくり僕の方に近付いてくる。僕は動けない。目を閉じることも声をあげることもできずにただ呼吸の糸口を探す。
彼女は僕の懐まで距離を詰めると僕の背中に手をまわし、その細く柔らかな髪を僕の胸にあずける。温かな重みを胸に感じる。
「大丈夫、私はあなたの味方だから」
そう言って僕の背中をさする。なでられたところが温かい。
「どうして?」
甘い匂いがする。いつかどこかで僕を縛った甘い血の匂いがする。
「あなたが一生懸命だから応援したいの」
彼女は優しく僕を抱きしめる。柔らかく温かな彼女の身体が、体を隔てて僕の心臓のすぐ横にある。
「僕は、」僕は息ができているのだろうか。
「僕は、どうすればいい?」
僕の位置から彼女の顔は見えない。それでも僕の言葉に彼女が微笑んだことが分かる
「あなたは傷付いてる。心に深い棘が刺さって血が流れているの」
僕の胸に寄りかかる彼女の頭の重みが増す。
「棘を抜かないと」
「どうやって?」
「あなたが一番許せないことはなに?」
「大切な人に死ねと言われたこと」
「向こうがその気ならこっちだって同じ覚悟でやらないと」
彼女の声は温かなままだ。僕の心臓だけがドッドッドッと振動している。
「やり返さないと」
「無理だよ」僕は肺に残った酸素を吐き出すように言う。苦しい。
「大丈夫」
彼女の声を聞くと何もかもが大丈夫な気がしてくる。幼い頃にひざを擦りむいて血が流れても、母が手を当ててくれれば痛みがなくなってしまったように。
「私が手伝ってあげる」
彼女に支えられながら膝から崩れた僕は、彼女の胸に顔を埋める。甘い血の匂いとごわごわした柔らかさに包まれて、僕の目の前は真っ暗になった。
*
僕は【遠藤】という表札の書かれた家の前を通り過ぎる。彼女が教えてくれた【まめまめ】の家だ。
僕の家から電車で一時間半の、郊外にある閑静な住宅街の一軒家だ。
熱を出して休んだ日の翌朝、会社には一か月間休むと一方的に連絡した。上司は詳細な理由の説明を求めたが、体調が悪いからと言って強引に電話を切ってしまった。
その日のうちに隣のデスクの先輩が電話をくれた。
「大丈夫か?心の痛みっていうのは目に見えないからやっかいなんだ。きちんと病院に行って判断してもらった方がいいぞ。待ってるからな」
しかし、僕にはやらなければいけないことがある。
【遠藤サヤカ】の家を監視して二週間。家の近くに幸い人の出入りの多い公園があった。そこを拠点にして家の前を通り過ぎたり、公園から眺めたりを延々と続けた結果、彼女と彼女の家族の生活は概ね把握できた。
【遠藤サヤカ】は旦那と中学生の息子と三人暮らしをしている。暮らし向きはやや裕福だが、【遠藤サヤカ】も木曜日以外の平日はパートに出ている。土曜日と日曜日は家族や夫婦で出かけることもあれば、近所に買い物に出るだけのこともある。
平日は朝6時頃に起床し、7時半から8時の間に旦那と息子は家を出る。
【遠藤サヤカ】は9時半に家を出て、10時から15時まで勤務し、買い物を済ませて16時には家にいる。
パートのない木曜日は友人と食事に行くことが多く、実名でやっている方のSNSへの投稿はその内容が多い。
【遠藤サヤカ】を観察する中で、彼女のネイルや指輪、持っている鞄がSNSの写真と一致した。彼女が【まめまめ】なのは間違いない。僕は【まめまめ】と【遠藤サヤカ】の特徴が一致するたびに暗い喜びを積み上げていった。
実名では充実した日々を発信する一方で、匿名で誹謗中傷を繰り返す。僕はそのギャップが大きければ大きいほど喜びを感じた。これだけ時間をかけたのだ、彼女には救いようのない大きな悪であってほしい。
【まめまめ】は実父から始まり、クラスメイト、恋人、恋人とは呼べない関係の人間、その他大勢のありとあらゆる男性に虐げられて生きてきた。その結果誰もが手にできるはずの些細な幸せすら奪われてしまった。というSNS上の設定をもっている。
しかし【遠藤サヤカ】は結婚して息子もいる。休みの日には家族で楽しそうに出かける姿も確認しているし、彼女が買い物から帰るときに息子が荷物を持って談笑しながら歩いている姿も何度も見かけた。
また、パートのない日には着飾って友人たちと流行りのレストランやカフェへ出かけている。彼女の友人たちも人が良さそうな女性たちだ。
今の生活で彼女は何が不満なのだろうか。いや、もちろん不満のない人生なんてないのだろう。彼女だって僕の見えないところで苦しい思いをしているのかもしれない。でもなぜ必要以上に不幸な女性のふりをするのだろうか。そして自分が不幸だからといって他人の人生を踏みにじる権利があるのだろうか。人に死ねと言っていいのだろうか。自分の家族がそう言われたらどう思うのだろうか。本当に殺されてしまったら何を感じるのだろうか。自分が殺されそうになったら何と言って命乞いするのだろうか。
僕は【遠藤サヤカ】の家を視野にいれつつ、炎上した自分のアカウントを確認する。
『都合が悪くなると逃げるのださすぎ。このまま消えてほしいわ』という彼女のコメントを最後に僕へのリアクションは止まっていた。
「逃げていないぞ」と僕は小さく呟く。彼女の家の様子を確認するついでに公園のトイレで用を足す。ちゃんと忘れなかったからな。洗面所にある汚れたステンレスミラーに映った僕の顔は頬がこけて髭が伸びて顔は黒ずんでいるのに目だけがギラギラと光っている。夜のトイレに浮かぶ血走った目玉は、童話の挿絵の怪物を連想させる。
【遠藤サヤカ】に接触するのは彼女のパートのない木曜日にすることにした。節々が痛い体や霞がかった脳も、そのことを考えると血液がめぐる。
仕事を休み始めて四週間目の火曜日、【遠藤サヤカ】との接触を明後日に控えた日、僕が一度自分の家に戻ってシャワーを浴びて出てくると会社の彼女からメールが入っていた。
「体調大丈夫?良ければ少し会えないかな?渡したいものがあるの」
*
彼女はいつもよりカジュアルな服装に身を包んでやってきた。細いジーンズとスニーカーに無地の黒いパーカー、髪の毛は下ろしている。それでも彼女の匂いや体のシルエットはこの前抱きしめられたときの溶けるような感触を、僕の濁った脳に思い起こさせる。
「大丈夫?これ栄養剤ね。あとリンゴも剥いてきたよ。食べる?」
「ありがとう」僕は久々にきちんと声を出した。喉がかすれている。
「熱は?ご飯は食べてるの?あ、彼女さんがやってくれてるから大丈夫か」
この子はどこまで分かっていて聞いているのだろうか。僕は詮索することも想像することもできない。【遠藤サヤカ】のことで頭がいっぱいなのだ。
「いや、彼女とはもうしばらく会ってないんだ」
「別れちゃったの?」
「分からない」
彼女は「そう」というと僕の背中に手を置いた。甘い匂いが強くなる。彼女の柔らかい髪が揺れる。
「大丈夫だよ。それに今はやることがあるんだから、それが終われば全部元通りになるよ」
「やることって?」
彼女は何も言わずに微笑む。僕がどうして休んでいるか、休んでいる間に何をしているか、これから何をするつもりなのか、彼女はきっと分かっているのだ。それでも微笑んでくれるのであれば僕はもう何も気にする必要はない。
「はいこれ。もし必要なら使って」
栄養剤の入ったビニール袋とは別に、無地の紙袋を渡される。僕は無言で受け取り、礼も言わずに中を見る。
袋を開けると大きな裁ちバサミが入っていた。
僕は彼女の顔を見る。彼女は大きな瞳を細めて首をかしげる。
「必要ならって、」僕は箱から裁ちバサミを取り出す。大きなハサミだ。ジーンズでも簡単に切り裂けそうなくらいに。
「必要ならって、何に?」
彼女は「ふふ」と小さく笑うと、僕の目をまっすぐに見て微笑んだ。
*
「すみません」
夕方の住宅街、人通りはない。僕が声をかけた40代くらいの女性が振り返る。どこかへ出かけた帰りなのだろう。しっかりと化粧をし、高級そうなワンピースを着ている。
「はい」
口元に笑顔はない。ただ、声をかけられたから機械的に振り向いた、そういう返事だ。
「遠藤さんですか?」僕の声はかすれている。高揚している気持ちを抑えるように、相手に気取られないように、極力トーンの低い声を出すことを意識する。
「はい」それでもやはり警戒の色の濃い目で僕を見る。帽子を目深にかぶってマスクを着けている僕の恰好が怪しくないわけがない。でもそれはどうでもいい。
「僕が誰だか分かりますか?」
【遠藤サヤカ】は目を見開いて僕を観察する。知り合いなのか、不審者なのか、あと一息判断に迷っている気配が感じられる。
「いえ、すみませんが、どちらさまでしょうか?」彼女はゆっくりと、しかし確実に後ずさりする。
僕は自分のアカウント名を告げる。
「分かりませんか?」
彼女は眉をひそめて記憶を探る。しかし思い当たることがないのだろう。いつまでも検索し続けている。だから僕は続ける。
「あなたはどうして人にひどいことを言うんですか?」
「え?」
「SNSで言っていますよね」
彼女の表情がこわばる。ゆっくりしていた後ずさりが止まる。これには心当たりがあるのであろう。それでいい。なかったら困る。
「自分と違う意見を捻じ曲げて晒し上げて、相手がどう思うかなんて一切考えずに、死んだっていいと思っている?そうでしょう?ねえ、」
僕は彼女に一歩詰め寄る。小さな声でも彼女の耳に届くように、大股でゆっくりと彼女のスペースに侵入する。
「ねえ、【まめまめ】さん」
一瞬の沈黙。僕にはこの沈黙が何を意味するか分かる。ずっと求めていた沈黙だ。
「誰なんですか?なんなんですか?」明らかな嫌悪と恐怖の色が【遠藤サヤカ】の顔に浮かぶ。僕は体が熱くなるのを感じる。でもまだ我慢だ。ここがピークではない。
「【まめまめ】さん、あんた、自分だけ安全なところにいるなんて不公平ですよ。自分だけ傷付かないなんて。あなたたちが一番嫌う不公平じゃないか。男とか女とか、そんなの関係なくさ、人間として神経を疑うよ。いや、人間かどうかも疑うよ。心が腐ってる」
彼女は目を大きく見開く。そこに怒りの色が混ざっているのを感じる。なんて気の強い人間なのだろう。こんな調子ではやはり言葉だけでは伝わらない。
「僕や僕の家族の魂は血を流したんだ。あんたも血を流すべきだ」
僕はさらに歩み寄る。
「知ってますか?魂から流れる血は見えないんだ。でも僕はあんたが流す血を見ないと、心の棘を抜くことができない。じゃあもうあんたができることはひとつしかないでしょう」
僕は深呼吸して顔を上げる。周囲には誰もいない。これは幸運ではない。だってそういう時間と場所を選んだのだから。
「誰かを殺すなら、あんたも殺される覚悟を持つべきだ」
我慢できない真っ黒な感情が津波のように僕の内側をぐしゃぐしゃにして、そのまま口から勢いよく飛び出す。僕はもうそれを抑えることをしない。
「分かるか?」
彼女は僕に背を向けて走り出そうとする。
「分かるか!!」
僕は背を向けた彼女のヒールのかかとを力いっぱい蹴り飛ばす。靴は飛んでいき、彼女は足をはらわれて体の右側をコンクリートの地面に打ちつける。
「嫌!何が!助けて!!誰か!誰か!」
僕は彼女の横にしゃがみ込む。泣きじゃくる彼女の顔はただ醜いだけで全然すっきりしない。
「助けて!どうして私なの!」泣き叫ぶように言う彼女の言葉に僕は吐き気をもよおす。「おええ」と大きな声が出るが何も出てこない。目の端に涙がたまる。
「僕もそう思ったよ。でも今は少し分かる。誰でもいいんだろ?あんたらと一緒だ」
僕は肩にトートバッグの重みを感じる。正確に言えば、バッグに入った裁ちバサミの重みを感じる。
最後の確認のために顔を上げて周囲を確認する。そしてそのとき初めて違和感に気付いた。
迷路の中にいるのだ。初めて自分の家とは無関係の場所で発現した。
ドッドッドッという血の流れる音が聞こえる。花のように甘い血の匂いが充満している。太陽も人の気配もなく、灰色の空が均一に広がっている。
僕に押さえつけられている【遠藤サヤカ】はじたばたと暴れて涙を流して叫んでいる。
良かった、これで何の心配もいらないじゃないか。このために僕は長い間迷路に迷い込んでいたのかもしれない。僕は自分の幸運を喜んだ。
いよいよだ。やっと心の棘を抜いて自分の魂から流れる血を止めることができるのだ。
僕は左手で【遠藤サヤカ】を力いっぱい地面に押さえつけ、右手をトートバッグに突っ込む。裁ちバサミを探してバッグの底に触れたとき、ハサミではない何かが手にぶつかった。
それは小さくて固い、直線と直角で囲まれた四角い何かだった。その鋭さに僕は覚えがある。
それは、恋人が僕への想いを確認するために用意してくれたプレゼントボックスだ。
そしてもうひとつ。僕が恋人への想いを確認するために少し遅れて用意したプレゼントボックスだった。
僕の右手はバッグの中で動きを止める。
僕のプレゼントは三日月をモチーフにしたピアスと猫のイラストの入ったハンカチだ。彼女は猫が好きだから、もしかしたらそれを渡して真摯に謝れば許してくれるかもしれない。笑ってくれるかもしれない。そう思って用意した。
彼女のプレゼントはどんな気持ちで選ばれたものなのだろう。何が入っているのだろう。今裁ちバサミを掴んだら、きっとその答えを知ることは永遠にない。
僕が逃げずに立ち向かわなくてはいけないのは本当に他者に向けた怒りなのだろうか。
今ここで【遠藤サヤカ】にハサミを突き立てることが、本当に僕が望んでいることなのだろうか。
泣きながら僕の家を出て行った日から恋人からの連絡はない。彼女は元気にしているのだろうか。いつも明るくて、わがままで、いつだって未来のことに一生懸命だった彼女は今もどこかで泣いているのかもしれない。
僕は無性に彼女の声が聞きたくなった。
それと同時に左手で押さえつけていた塊が急速に価値を失っていくのを感じた。
【遠藤サヤカ】を地面に押さえつけていた左手の力が緩むと、彼女はムカデのようにもぞもぞと這い出し、一目散に駆け出した。僕は立ち上がると、遠ざかる彼女の背中を眺めながら目深にかぶっていた帽子を脱いで地面に投げた。それからマスクを外し、羽織っていた黒のウインドブレーカーを脱ぎ、それもそのまま地面に捨てた。
僕は大きなため息をつくと、【遠藤サヤカ】が走っていった方向とは反対側に歩き出した。
歩きながら四角い箱の辺を指でなぞる。その真っ直ぐな鋭さで一歩ずつ足が踏み出せる。
後ろを振り返ると【遠藤サヤカ】が角を曲がるところだった。僕はそれを見送らずに反対側の角を曲がる。
顔を上げると空には真っ赤な太陽がある。木々を揺らす風がある。遠くから電車の音が聞こえる。
僕はスマートフォンを取り出すと炎上したSNSのアプリを削除した。
このあと【まめまめ】にも【遠藤サヤカ】にも何か動きがあるかもしれない。でもそれももうどうでもいい。もしかしたら彼女は永遠にこの迷路を彷徨うことになるかもしれない。それもどちらでも構わない。僕はもう振り返らない。
少し歩くと人通りが戻ってきて、その流れに乗って駅に向かった。
駅に着くと大勢の帰るべき場所をもつ人たちと同じように電車に乗った。吊り革を掴んで、改札をくぐって、自分の家の最寄駅で降りる。
もう迷路はできなかった。いつも通りの道を自分の足で歩いて、自分の家に帰った。
*
「おいおいおい!心配したぞ!」
一か月ぶりに出勤するとすぐに先輩が声をかけてくれた。僕は彼の顔を見て安心する。取り立てて優れたものではないけれど、ありふれた日常を取り戻せた気がした。
「あれか?あの、重い病気とか、ご家族にご不幸があったとかか?」
先輩は心配そうに僕の顔を覗き込む。その顔があまりに真剣なので僕はなんだか可笑しくなってしまう。
「はい、でももう大丈夫そうなので復帰しました。ご迷惑おかけしました」
僕がそう言うと、彼は「おお」と中身の読み取れない返事をする。
「ずいぶんげっそりしてるもんなあ。とりあえずラーメン行くか?」
「お願いします」僕は笑った。
僕は自分のデスクにたまった書類の束と大量のメールを簡単に確認すると周囲を見回す。それから先輩に声をかける。
「ところで彼女は出勤してないんですか?」
通路を挟んで僕の後ろにあったはずの彼女のデスクはぽつんと電話が置かれているだけで人の気配がない。まるで元から誰もいなかったかのようだ。
誰もいなかったようだ、と感じて僕は全身に鳥肌が立つのを感じる。元から誰もいなかった?
「彼女?ああ、彼女は転職したとかでちょっと前にいなくなったよ」先輩が空になったデスクを見ながらそう言ったので僕は安心する。でもそれなら彼女はどうしたのだろうか。
「詳しくは誰も聞いてないらしい。それに不思議と印象にないんだよな。俺も今言われるまで忘れていたくらいだ」
彼女は突然姿を消した。僕が【遠藤サヤカ】の家から帰った日の夜に着信があったが、僕はそれには出なかった。翌日かけなおしてみると「この電話は現在使われておりせん」というアナウンスが流れ、メールも返ってくることはなかった。
恋人と会う前に彼女とのやり取りはすべて消去した。それが正しいことのような気がしたのだ。連絡がとれなくなった今、僕の家にある彼女のくれた栄養ドリンクの空き瓶だけが彼女がいたことの唯一の証明になっている。
恋人からのプレゼントボックスに導かれて僕が帰宅した翌日、恋人と連絡がとれた。彼女は深く傷ついていた。僕は真剣に謝り、それから彼女のことを愛していることを伝えた。彼女はそれを黙って聞いた。
「あなたは今すごく落ち込んでいるように喋るけれど、それは私が出て行ったからでしょう。あなたは結局その場の大きな感情に流されているだけで、自分の言葉で喋っていないの。何にも依存しない自分の言葉が見つかったらまた電話をかけてほしい」
彼女はそう言うと電話を切った。
僕は電話越しに彼女の温かさを求めたが、そこにあるのは無機質な沈黙だけだった。
電話が終わった後、僕は彼女が僕のために用意してくれたプレゼントボックスと、僕が彼女のために用意したプレゼントボックスを二つ並べて机の上に置いた。
そして台所に行き、栄養ドリンクの空き瓶持ち上げると、少し迷ってからそれをゴミ箱に投げ捨てた。
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