神霊主義者がすぐにサタンと他をいうことの問題点
キリストは十字架を
背負ったのです
もし中心的な立場に
いると自負するなら
キリストと同じにならないと
いけません
十字架を背負うなら
反対する教条主義者全ても
背負っていかないと
その人は中心的な立場とは
言えないで単なる対抗勢力なのです
神霊主義者は神様からの
啓示部分が強すぎて
ある意味自分が罪人であることを
忘れてしまって
相手を批判する立場や
何か強面な言葉をまくしたてて
しまったりと
受けた神様の啓示を
きちんと伝えられなくして
しまったのです
※私自身も神霊主義的な考えがありますが通常ブログでは大学院で学んだ神学や哲学的、理性的なものに努めて書いておりますその点はご了承ください
神霊主義者の神様からの啓示は本物
神霊主義者の神様からの啓示は
確かに素晴らしいものあり
それを伝える言葉を持つ人は
いいのですが
なかなかそういう人もいません
霊的に通じるというのは
体験してみればわかると思います
余りにもとてつもない体験で
その一度だけの体験でも
人の人生を根本から変えてしまう
そんな力もあります
聖霊の力は本物で神霊主義者が
意味不明な言葉をいったり
信仰を現実的にしている人を
非難したりするのは
啓示が偽物ではなくて
啓示を受けた人の伝え方が
偽物というか不十分なだけなのです
しかしながらどちらが悪いかは一目瞭然
もちろん教条主義(律法主義、倫理中心主義、現実的信仰などと言い換えてもいいかもしれませんが)にも原因があります
どちらが悪いかといったら
神霊主義の方が善なのは確かなのです
彼らは聖書の深い意味を
啓示的に捉えることをある種放棄して
聖典を牢獄のような教義というものに
閉じ込めているのも事実です
もちろん人の認識は完全ではなく
人によってばらつきがあるため
一つの目安として教義が必要なのも
事実でしょう
小学校で教えられる教科書は
実際の現実と学問の中の客観的な
事実とは違っていて
専門家からしたら間違っている
ということもあることは知られていますが
聖書も同じです
聖書は啓示の集合体なので
啓示的な発想やインスピレーションが
ないとその真意は理解できないのは
科学的に考えれば当たり前の
論理的なことですが
それなのに啓示的な発想を
持ってそれをとらえきれているのでしょうか
常に祈り続けて、そのままに現実でも
いられないと私はそう言い切ることが
できないので
誰でもそれをしているとはとても思えません
もしみんなしているというのなら
私の祈りの基準が低かったのでそれが
わからなかったので
もしそうならどうかコメントなどで
お知らせください
どちらにせよ
神霊主義者のいうことは
本物ですが
それをそのまま受け取っては
いけません
私達はそれを神様からの
メッセージと
受け取るようにしないと
いけないのです
その努力が足りずにいるので
教条主義者の方を私はどちらかというと
悪だというのです
それに善悪二元論ではなく
根源は一つなので
私は悪というのは未成熟なもの
と思っていますが…
神霊主義者がするべきこと
聖書そのものが神霊主義的なもので生まれてきているものですから
聖書の啓示を受けた人はそもそも神霊主義者です
最初は神霊主義から始まるのは当たり前です
そもそも神様に形もありません
教義が神様なはずもありません
目に見えないものに感化受けないといけないのですから
神霊主義者が一番近いところにいるのは
明らかですが
けれど彼らは責任を果たし切れていません
それ不十分なところから神様の本当の
メッセージが伝えられなくて居るのは事実です
神霊主義者はある意味ユダヤ教的にいうなら
預言者のようなものですが
彼らの多くは単に未来を予知したり
異言の力を誇ったりまたはその力に
振り回されたり
預言者としてのある資格を持ち損ねているのです
それが代弁者という立場ですしもっというと
彼らは神様の啓示の代弁という異言的なものだけでなく
人の代弁者にもならないといけないのです
キリストはどれだけユダヤ民族を愛していたでしょうか
そして預言者は常にいいます
イスラエルよ神に帰れ
また預言者は神様にイスラエルの不信をとりなしたりも
するのです
キリストがゲッセマネで祈って十字架の道を
いくことになったのもイスラエルの不信の罪を
背負って行かれたと考えられます
教条主義者の不信の罪を背負えない
神霊主義者は偽物にどうしても
そういう意味ではならざる負えないのです
教条主義者も神霊主義者も
お互いに不十分なことがあって
和解ができずにおります
この二つの対立というか誤解が
教会の教派の分裂やら党派心の
原因になっていると
私は思っています