序章 現代的理性に阻まれている本来の信仰
近代に入って文芸復興などによって人の理性は極度に発達し科学的な分析もかなり進んできています。しかしながら科学で全ては把握できないという考えを持っている学者たちも多かったとしても、文明が便利になればなるほどこのままでいいのではという思いも強いのが現状です
現実世界の中で信仰という概念は今や倫理道徳的なものになってしまうことも多くなってしまってもいます。
これらは全て人の今の理性的判断基準の枠の中で世界をみることを中心としたある種実存主義的な文化による影響が一番の大きなものだと言えるのですが、問題は私が思うということの範囲だけだと、私が思えないことを私達の理性的な判断に含められないというになります
なのでデカルトは
我思うゆえに我ありというところから哲学を始めるのがいいだろう
という風にいったのは我思うということで全て決まるといいきったわけでも実はなく、哲学としてはそこから始めるしかないような理性の限界をも含めた概念だったともいえる。
しかしながら実存主義の多くは我思うという内容を出発点にしているもしくはかなり大きな影響を持っているのは確かです
信仰は目に見えないものを探し求めるものであるわけだとするなら、カントがいうようにアプリオリもしくは古来からあるイデア論、もちろん目に見えない神様そのものに対するある種余地を人の認識の中に入れておかないとならないことは明らかなのですがいつのまにか世俗主義的な中や政治的な組織的信仰の中に埋もれてしまっています
本来の信仰とかけ離れてしまっている要素が現代には多々あるのですが、神様の存在の全てを知りえない私達のもどかしさがそれをしてしまい挙句の果てに神は死んだということをいうような状態にまでなっている場合もあります。
このような実存主義的なものにおける信仰の限界と本来信仰とはどうすればいいのかそれを探求するのは今後の私達の生活に価値あることだと思う。
確かに目に見えないものだけで我思うゆえに我ありを除外すると不可知論や盲目的信仰などしか残らないという問題点もあります
それについても考えていかないとならないとは思います
こちらのマガジンではその内容を部分に分けてできるだけ細部に到達するように書いていこうと思います