ただ信じるだけでは飴をもらった子供でしかありません

信仰は
己の弱さとの闘いです

つまり私の中の罪との
闘いです

その基盤がなければ
いくら許してもらえても
ただ飴をもらっただけに
なるのです

主の恵みは確かに
恩恵深いですが

それをどうやって受け取りますが

多く許したものが多く許される

多く恵みの意味を理解したものが
多く恩恵を受けられるのでは
ないでしょうか

なぜただ信じることが義という主張がされたのか

私は神学を学びましたがこの部分の専門家ではないので
もしかしたら事実と少し違うと思いますが私の専門の
認識論的な立場からいうと

信じることが義とされる理由は
そこに不信があったからとも言えます

イエスキリストはユダヤの中で王として存在することも予定されていたわけですから、ある意味その義なる王をいただけなかったユダヤ人は不信をしたことは明らかでしょう

6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。
8 主はひと言をヤコブにおくり、これをイスラエルの上にくだされる。

※イザヤ書9 6-8から引用 ここだけでなく他にも似たような預言があります


それから回復されるために信じることが義となったことは想像できることです

聖書に具体的な記述がないのでこれからは類推にはなりますが

キリストを王として受け入れることがされるまで信仰による義は必要だという過程的なことになるとも言えます

実際信じるだけよりより深いのは主を信頼するだったり、さらにいうと主よ私をあなたの僕にしてくださいであったりするわけでそれは信じているということを超えている考えがそこにあるわけです

一概に信じるということがいろいろになってしまうので信仰の深さということをより求めていくことは必要なことでしょう



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