神様は言葉であるということが聖書的にあるがそもそも言葉とは何なのか
神様が言葉であるというのをどう解釈するのかの解釈の部分は人の認識の段階によって変わってしまうものだ。なので完全な解答を我々がとらえられないのは事実ではあるがそれでは不可知論的になってしまうし何を信仰の根拠にしていいのかわからなくなってしまう
ここで一つ言えることは今はわからないが認識が発展して深掘りしたらまたわかる段階が進み昔わかっていなかったけれど今わかることことは勿論ある。なので不可知論的に解答を得られないのではなくて、認識の成長とともに解答は明かされて生き理解されていく。
この解釈は実に信仰とか祈りによって新たなものが開示されるという黙示や啓示、預言というものを得る構造でも同じことが言えるが単なる解釈と違って認識の根底そのものまでも子の霊的な変化はもたらすと言える。
そういう人の解釈の構造があることはまた機会があったら考えることにして現在の自分の状況、現在の世界の状況によるいわゆる現世界認識では神様が言葉であることの意味をどう深掘りできるのだろうか。
そのことを最初の投稿として扱いたいと思う
現世界認識により制約されている人の世界観
単に言葉であるということで信仰しても勿論それは構わらない。しかしより深く言葉自体の意味を分かってすれば、聖書の真意は勿論深く理解できることにもなる。これは察しのいい読者ならわかっているかと思うが
現世界認識
これによって決定されるものではある。なので現世界認識が何であるのかを論じるのが一番難解な問題であるのでそれを直接論じないでそこから出てきたものを分析することによって現世界認識がどういうものであるのかの概略を得る方が現世界認識の姿を間違って捉えないことだろう。いわばこれが西洋により不可知性の克服と同じような作用でもあるのだ。
概論はおいておいてそれでは言葉といわれている神様のこともおいておいてそもそも言葉というものについてその概念の深みを探求してみることにしよう。
信仰は祈りを深めていけばいいのだが、人は個の現世界認識によっていろいろと制約を受けた状態にはいるので、これが何であるのかはおいておいて、ある特定の概念についてつまり言葉とは何かということにおいて派生的にはなるが深みを理解することを試みてみよう。
人しかない言葉とはつまりつながるためのツールである
人が唯一もっているもので動物にはないものだ。もちろん動物にも似たようなものはあるかもしれないがこうしてあなたが私の文章を読んでいるこれと同じことは人間存在しかしないことになる。
基督教の中には動物の方が勝っていると考えている人もいるようだがそれは確かに正しいが実際のところ本来的な人間そのものが動物より劣っているのではなくて、堕落の結果によってこうなってしまった人間の実成長段階ゆえに劣っている現状があるというだけだ。
どちらにせよ、人にしかないものが言葉といえる
ただこれだけでは言葉の本質が見えてこない。それでは言葉とは何であるのかというとそもそも言葉が必要となるのはコミュニケーションのためである。いわゆる最低二つの存在がつながるための架け橋といっていい。一人の存在だけでも言葉は持っていると思われるが実はそれは内なる自分つまり霊的な何か最終的には神様などの超越的存在との間のつながりを一人での言葉は意識しているという点では同じである。
つまり言葉は存在と存在がつながるためにあるものといえる。
言葉の本質を理解するとさらに神様は言葉であるということの理解が進むのであるつまり現世界認識を更新することで信仰も深まっていく
今まで言葉そのものが重要だと思っていた部分は信仰の中に確かにあった。しかし言葉そのものが何であるのかの具体性は乏しかったと思う。
※私も全ての宗派のことは知らないので乏しくなく明確な宗派もあるのかもしれないが
言葉はつながるためのツール、介在物、メディウム(媒介体)であり、神様が言葉であるという意味には神様存在のそのものが表現されているわけではなく、神様の作用的な部分として言葉という人にしかない特異なものがあるということであるのだ。
それでは言葉は何をさらに作用したり意味するものなのだろうか