最初の出会い
生まれは東京でした
父も母もキリスト教徒ではなく信仰も持っていませんでした
今も家族の中で信仰を持っているのは私だけです
※後に父と母は形式上洗礼的なものを老齢になったら受けてくれましたが儀式だけですので信仰を実践するほどに至っていません
実は幼いとき人と違って特殊な体験をしていることが二つあります
一つは信仰とは関係ないことなので簡単に触れますがいわゆる子役モデルをしていたということです
人気の子役モデルでした
CMにもでたことはあります
忙しくしていて事務所の中でも1,2を争う人気だったようで私の幼稚園の出席簿は欠席ばかりでした
しかし私はそれをしているのを人にばれるのが恥ずかしくて小学生3年生ぐらいに親にやめたいといってやめました
そのまましていたらジャニーズに入っていたかもしれません(笑)位に事務所では人気だったようで、私をどうしても使いたいという有名お菓子メーカーの社長などもいたとか
あと同じ事務所で自分より人気でなかった子供が後に有名な女優になっていたりしています
今思うと神様の加護ゆえにというのがあったのかなと思います
ただ少しこれらは傲慢の元になるかもしれませんが事実としてあったのであえて書いておきます
あとはいろいろエピソードはありますが
基本小さい時の話なので詳しくは覚えていません
それにとても嫌な仕事だったので記憶から忘れるように私自身がしていたのでしょう
後日談になりますが大学生の時に道迷って
そんな人気なので仕事としてもいいかなと思って父に再度モデルの仕事はできるだろうかと言ったことはありました
どうももともとやめたときの様子から推測していただけますが奥手だった私は父は
と言われても恥ずかしくて結局いきませんでした
今思うとそれをやっていたら人気にはならないにしても何かそういう仕事はコネでもらえたらでしょうからその業界に入ってしまっていたでしょう
子供のときに続けていればコネが多くできているでしょうから何か花は咲いたでしょうが大学生の時はきっと成功はしていかなったでしょう
ただちょっと自画自賛にはなってしまいますが、素材は若い頃はそんなに悪くはなかったので雑誌モデルぐらいはできたかもしれません
モデルの話はここまでですが一つだけ重要なことは、メディアを通じて語れるもの伝わるものが一部しかも演出されたものだということは私がメディアの中にいたのでそれは身に染みて感じていました
これは聖書と向き合うときにも大事な概念にはなったと思います
最初の声を聞いたのは4歳ぐらいのときでした
実際は4-6歳のときでそのどこかなのはわかりません
なぜなら後に学ぶ心理学では人は4歳以前のことは記憶に残ることが少ないという仮説もあるように、その当たりのことは大抵の人は覚えていないのでしょう
年齢は余り問題ではなくただ幼稚園以前の時だったということです
私が聞いたのは
いつの日か迎えにいくからあなたは待っていなければならない
という声でした
その時は神の声というかそもそもそんな小さいので人はこういうものを感じて生きている何かの感覚なのかと思っていました
後にほとんど多くの人はそんな感覚がないことを知りますが自分はちょっとした恵を生まれながらに持っていたようです
その後霊的な体験は何度となくいたしましたがその感覚するとそれは天使の声だったと思います特に名前までは知りません
まあ尋ねれば教えてくれるかもしれませんがそれを知ったところで意味があまりないと考えていて今まで聞いたことはありませんでした
ただ霊的に通じる時に一度名前を聞いたことがあるのですがその時彼はウリエルといいました
その話はまた次回にしましょう
以上の二つはきっと他の人にはない特殊な体験だと思います
まあ全く世界にそういう体験がない人がいないとはいいませんが
きっと1%以内ぐらいの確率の体験かと思います
人にはそれぞれそういう体験があるんだと思いますが
私の中ではそれでした
その他に私の信仰を構築する上で特殊な点を記述して
序章は終わりたいと思います
追記
追加でいうなら以下の点になります
西洋人の血が少し流れていた
IQが高かったみたいで正確に測っていませんが140ぐらいあるみたいです
これらの点について考えるとそもそもキリスト教の精神風土がある状態で生まれてきているということですが母の親戚はほぼクリスチャンですが父との結婚で疎遠になってしまったらしく
私は一度もその人たちにあったことがありません
なので2代目3代目という感じではないのですがただ日本人でないところで受容されてきた歴史的な西洋のキリスト教精神がしみているのを感じます
というのはその血は独逸なのですがもともと日本の愛国心が何か共鳴できなかったのですが実存主義の研究をする際に読んだヒットラーの我が闘争を読んだらびっくりしたのです
そこに私は共鳴している自分を知りました
勿論神学を学んでいたのでそれがすばらしいとは思いませんでしたが心の中に共鳴する振動みたいのは感じたので
この西洋人の血筋というのも私が信仰を持つ上で重要なものでしょう
次にIQ140という点についてですが
もともと子供の頃より不思議なことがあったのですがそもそも先生の言っていることが始めて聞いたように思えなかった感覚があったんです
ただ数学とか理系的なものはそうではありませんでしたが
特に国語何かはその感覚が強くあって作者の意図を把握するということに長けていました
そのおかげで私は聖書に対しても国語でいう行間を読むこととそもそもいいたいことの本質は何なのかっていうことを検討することをよくするようになってします
これだけだと理性的になってしまいがちだと思うので少しおすすめできないのですがこれも必要なことです
以上が私が信仰を受容する要素になったものですが
そもそも啓示的導きがあったというのが一番大きなところだと思います