黙示録を無視する信仰ってどういうことなのか逆に聞きたいです
歴史の終末について
日本で黙示録が
関係ないということで
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信仰を持っているというの
を聞いてちょっとびっくりして
いるんですが
全ての宗派の話ではないとは思うのですが
一体どういう納得の仕方なのか
逆に聞きたいです
アメリカでは終わりの日の
概念は当たり前なのに…
新しい日常も終末論が発想だしね
コロナのときも
新しい日常という概念が
あったけれど
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これも災害によって
ある種神様の裁きによって
(実際神様がしたのかは
わかりませんが)
引き起こされた終末を
越えて新天新地がやってきた
という発想からきているのだろうし
アルマゲドンみたいな
隕石がという話もあるし
恐竜の滅んだ原因も
それになっている
これらは黙示録からの
連想であることは
明らかだと思うが
終わりの日の解釈はいろいろ
あなたの宗派教派でどう解釈しているかは
まずおいておいて一番重要なのはもちろん
聖書
です
ただ黙示録は曖昧で終わりの日に新天新地が
くるという約束(ある意味これが新しい約束と
解釈する教派もあります)が示されています
今が終末である黙示録の預言は成就されているのがとかで世界の動きなどを解釈していくことも重要ですがそれよりもそれでは何がその後起こるのかということを理解することの方が本質だとは思います
今終末であるというのは信仰に至る導入ではいいのですが、それ自体を信仰するのはおかしな話だと思いますし
キリスト教はこの終わりの日の思想が色濃い宗教です
そもそも弟子たちはいつ終わりの日つまり希望の日
(教派によってキリストが再び来る日つまり再臨の日)
について待ち望んでいたようにいたことは明らかですが
いつの日かその要素は消えてしまったのでしょうか
確かに2000年の間いつとも約束されていない日を
待ち続けるのは大変です
例えば10人の乙女の話もそのことを示唆していると思います
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そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。
黙示録がわからない文章であってもそれを啓示として受け止めることはその日その時をあなたがたはわからないという言葉に沿うことなのかと個人的には考えています
もちろん黙示録の出来事は起こるのでしょうが現実にどう展開されるのかはその文字通り起こっても地名や出来事はきっと違う名前になる場合もあるでしょう
そのすべてを理解するのは黙示録を受けたヨハネと同じ程度の啓示を受けない限り理解はできないはずですがたとえ理解できなくとも部分的にでもわかる部分はあります
わからないなりにもそれを大切にするということは信仰において実は基本的なことだと思います
それにわからないというところに信仰がより深くなる道が潜んでいそうですし、今の私達の既成概念ではとらえられないだけかもしれませんしまた、わからないという謙虚さを常に持ち続けていることも重要だということもあるのでしょう
どれも憶測ですが
そういう信仰的な意味はあるにしてもそれを避けるのは基本的に極端な解釈をすることが問題となりそうだという配慮かなと思います
黙示録は真理の先端部分
ことに一番先端の部分は処理を間違えると例えば槍など刺さるわけです。
真理の槍も同じことです
黙示録は書き換えてはいけないと言われる最先端で、また最後の章という象徴的な意味もありますしさらには内容が比喩で意味不明というところから新しい預言のつなぎを連想させます
この先端的すぎる黙示録を極大解釈するとそれはすべておかしくなります
よく終末を演出するテロやら、集団自殺(終わりを死ととらえたのか何か)などはそういう例と言えるのかもしれませんが
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また映画でも同じくそういうモチーフは使われます
これらは極端すぎて現実味がありませんが現象面として分析して本来の姿が何なのかはわかると思います
そもそも人間側からの演出としてやることは聖書的にはおかしいです
よく言われるのは待っていなさいですし
また死=終わりですがこれもキリストにあって永遠の命といっているのと矛盾します。心は永遠で体は違うといっても自分から命を断つとまで聖書にはなくまた創世記のうめよふえよ地に満ちよ万のものを治めよができなくなってしまいます
いろいろどう受け止めていくべきなのかを考えるヒントはあるかともいます
死は肉体の死ではないなら終わりは悪い心の終わりととらえるならまだ筋が通りそうです
それに龍が最後までいるわけではありませんから悪の根源の悪魔が敗北する日というのが終わりの日ということもいえます
これらは解釈ですし他にも解釈はあるでしょう
何も考えるなただ待っていなさいではなくて祈って待っていなさいというのであるので祈りの先に答え=啓示(といかなくても内示や何かで示される悟りみたいなもの、夢示など)があるものだと
黙示録は放置していいものではないのです