歯が抜けた小学生に、その隙間がみっともないから今すぐ埋めなさい、という年寄りの、なんと多いことか。
アドバイスや批評などというのはしないことにしている。
そういうのを求められると、若いときはなんだかうれしくなって、あれこれ自分なりに応えていたときもある。
今ではそれは大きな間違いだと分かる。
特に顔を知っている友人知人が、家族であっても、何かたずねてきた時は徹底して指摘などしない。
どうしても、という雰囲気であってもである。
何がなんでも一言ください、と乞われれば、おちょこの半分くらいは何か発するかもしれない。ただし「そんなことを気にするよりも」と一言おいて、話を変えるだろう。
ましてやアドバイス下さい、などと明言されてないのに勝手に述べることは
絶対にしない。
一歩外に出れば、だいたいの賛否両論は彼の耳に入ってくる。
茨の道そのもの。
壁にこそなれ、向かい風に私はならない。
一番の味方、肯定者でありたいと思っている。
行動を起こしたことに、継続しようとしていることに、悩んで考えていることに、選択があってるか間違っているか逡巡していることに、逆に何もしたくないということに、うんそれでいいんだよ、いいじゃないか、がんばれ、と。
ネット時代の今は、賛否のうちの否定のほうが聞こえてくる割合が多い。的を得た
指摘でも嫌だというのに、謂れのないことや見当違いの批判などが来ることも足すと、ネガティブな言葉のほうが段違いなことは、想像にかたくない。
他人に心おられることほど、くやしいことはない。
コツコツ歩み続けることがなにより一番。1年か3年か10年か分からないけど、その過程で間違いや何かは修正していけば充分。
人はいつだって過程の中にある。
それにそうした積み重ねをしていけば、自ずと先駆者や理解ある第三者があらわれ、私よりも的確な一言をくれるだろう。
逆にいうと、人生にとってはそういう第三者との出会いが分岐点である。
俗に言う「引き上げてくれる人」と言おうか。
分かれ道は続いた先に現れる。その時間はまた、その人にとっても鍛錬の積み重ねそのもの。
人生の分岐点にたどり着きたいのなら、やっぱり継続して、それまでの歩みを貯めていくことが一番大事。
記録に残すというかストックをためるというか、そういうものしか、人の目を集めない。
理解ある第三者というのは、たいていの場合、継続することが人類にとってどれほど困難か知っている。そして善意のカオをした邪魔が入ることも経験済みである。
手元にまだ何もたまっていない、始めたばかりの人はそりゃ悩むだろう。
不安から、ひとつ何かをやっては手近な人に相談することもある。そういうときに些細なアドバイスは野暮だということだ。したり顔での鋭い一言など一番いらない。
コンプレックスを指摘されることと同義である。矯正するのは今ではないのだ。
整流する役割と段階はまた別にある。
何ごとにもゆらぎはつきもので、それはエネルギーを貯める段階である。
いいね、頑張ったね、この調子でいいと思うよ、いつだって応援してるから。
続けたくなるエネルギーを与えられる人になりたいよ、私は。