映像は嘘を吐く。でも、だからこそ本当を語る。
日々、映像を記録したり、編集を重ねたりするのが、僕の日常である。その一方で、テレビなど、提供される映像はほとんど見ない。自分にとって無駄な情報は受け取りたくないし、思考する時間を自動的に奪われたりしたくない、というのがその理由だ。その代わりと言っては何だが、映画は見る。今は映画館に行けないけれど、隙あらば映画は見る。お金はかかるけど、自分が見たいと決めたものだけ見ることができるから。
ながらくテレビの制作で生計を営んできたにもかかわらず、テレビを見ない、だなんて!と、眉をひそめる方もいるだろう。もちろん全く見ないわけでもないし、自分の手掛けた番組がどれだけの人に見られたか、どんな感想を持たれたか、という事はとても気になる。でも、そうやって自分事としてテレビに関わってきたからこそ、その苦しさも良く分かる。だから、あまり見たくないのかもしれない。
最近では民放のワイドショーで、コロナウイルスの対策についてのリモート取材を受けたお医者さんが、自身の発言のごく一部を切り取られ、他の人のコメントと恣意的につなぎ合わされた結果、自分の考えとは正反対のことを語る結果になってしまった、と訴え出る出来事があった。テレビの取材は科学研究と同じように「おそらくそうだろう、きっとそうに決まっている」という仮説から始まる。問題なのは、その仮説が否定されたとき、否定とまではいかなくとも正しい説だと言い切るのが難しい時に、取材内容をどう表現し、多くの人に伝えるか、ということである。
仮説通りなら、苦も無く編集できるし、そのまま公にして何の問題もない。しかし、多くの場合、せいぜいが「そうも考えられるし、そうでないとも考えられる」という程度の言い切りしかできない。当たり前だ!世界は、人間の描く論理性や思い込みに沿って「分かりやすく」出来ているわけではないのだから。
だから編集をするときには、それはそれは、謙虚になる必要がある。取材対象者が語ること、記録した映像が物語る混沌に、ひるむことなく身を委ね、そこからかすかに聞こえてくるものがたり(のようなもの)だけを頼りに、その謎や問題や喜びや悲しみの深さを描き出すように編集していくことだけが、本来、許されうる編集という行為であり、映画や番組としてまとめ上げるということだ。
しかし、ただ技術や労力による奉仕によって対価を得ることだけが目的となってしまうと、仮説に合致する内容しか見ようとしなくなってしまう。最初は、意志的に見ようとしないことで状況をしのいでいたはずが、いつの間にか、仮説が本当らしく感じられる物事以外は見る必要がない物事として無視することが習いとなっていく。そうした現実に対する敬意の喪失が、最近の民放のワイドショーの問題を始めとし、近年、たびたび問題となる「やらせ」など、過剰演出や過度に作為的な編集につながっていることは間違いない。
編集という作業は、現実の時間そのもののごく一部を取り出し、説話化する作業に他ならない。編集という作業そのものが「嘘を吐く」という行為とほとんど同義であることは避けられない。それは、宿命のようなものだ。だからこそ編集に当たる者は、自らが体験した現実への深い敬意を忘れてはならない。その現実が物語ってくれた「本当のこと」に向かって、編集という嘘を吐かなければならない。
映像は嘘を吐く。でも、だからこそ本当を語る。僕はそう思うし、自分の作るものがそうであるように祈りながら、今日も映像と向き合い、手を動かす。
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