起源に関するめも

社会における「正統性」の根拠となる「起源」のフィクションは、それによって社会の象徴的設定、及び、組織化が行われるとされている以上、その社会におけるあらゆる意味の源泉として働くのではないか。そうであれば、「文学」も含め記号体系に基づくあらゆる営みは起源のフィクションに従属している必要がある。しかし、そうであるとすればいかにして文学は起源のフィクションと「張り合う」ことが可能なのか。

起源のフィクションそれ自体は言語を意味あるものとするための構造を作り出す働きそのものであるが、それが繰り返し「起源」として語られるべきものである以上、構造を作り出す側の働きとしてだけでなく、作り出された構造の中で有意味なものとして位置付けられる必要がある。そのため、起源はそれとして機能するために自らのうちに根源的な分裂をはらんでいなければならない。作り出された構造の内に位置付けられた物語はもはや全てを意味付けるものとして特権的に働くのではなく、むしろ意味付けられるものとして他の物語と並置される。従って、文学が危険なものになりうるのは、起源のフィクションでさえ物語が常に持つ「意味の構造を作り出すもの」と「構造の中で意味を持つもの」という二重性、そして、二重性が常に後者に還元されなければ語り得ないというあり方から逃れ得ないからだろう。すると、起源のフィクションがパロディによって被る変容は構造の中の物語を介して意味の構造そのものにも波及すると言いたくても、そこにおいて何が変容したのかは最早語り得ないのではないか。変容した構造に基づいてのみ私たちは有意味に語るのだから、変容以前の構造そのものを語ることは出来ない、そこで語られるものは現在の構造の中での歴史的な変化であって歴史そのものを支える意味の変化ではあり得ない。つまり、成功した革命は常にそれが起こったことそのものを隠蔽する。このため、構造の変化そのものを語るためには「系譜学」のようなレトリックが必要になる。ただし、それも現在の構造(あるいはエピステーメー)から見た「解釈学」に過ぎない(、というか、解釈学と系譜学の違いが語り得ない)。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?