観客の退隠(人生のお話?めも)

「人生は演劇である」式の格言は世に多くあるが、いかなる意味でそう言えるのか?私たちは演劇の外に出ることが出来ないのに、いかなる観点から自分が演劇のうちにあることに気付くことが出来るのだろうか?
 人生を演劇に例える際、私たち一人一人は役者に、生の総体は舞台に準えられる。ただし通常の演劇と異なり、私たちは舞台から降りることは出来ない。また、舞台の上で演じられることは何であれ演劇の一部分となるのだから、私たちはいつでも常に演じ続けることになる。加えて人生演劇には演技の失敗がありえない。私たちは仕事や人間関係において求められている役割を十分に果たせないという意味で失敗してしまうことはあるが、これはあくまで仕事や人間関係といった人生演劇内で与えられている役(部長だの母親だの。)に関する失敗である。こうした演劇内演劇では、台本(正しい演技のあり方)が決まっていることによって、台本と実際の演技との乖離の可能性が開かれている。しかし、総体としての私の生は他に類例のある役ではないため予め定められた演技の予定はない。回顧的に見るなら自分の行為がその都度台本を書いている、あるいは台本そのものである、というような状態にある。演技をしないことですら、演技をしないという演技でしかありえなくなる点が人生演劇の特徴である。
 ただし、私たちは常に自らを含めた演劇の全体を観る存在でもある。(もちろん視野に限界はあるが。)それはいつも演劇における観客という役に組み入れられてしまうものでしかないが、その度ごとに、私たちは観客という役そのものを役として見る高階の観客でもある。演劇から退隠し続けていく、いわば観客のゼロ地点とでも呼ぶべき位置があり、そこにこそ人生の総体をその内部から演劇として観る可能性が存するのではないだろうか。

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