The Concept of Life's Meaning (Thaddeus Metz)のメモ
人生の意味の哲学とは何か?
※卒論演習発表(4/19)
読んだもの'The Oxford Handbook of Meaning in Life'所収の1 The Concept of Life’s Meaning (Thaddeus Metz)[1]
【内容】
人生の意味(Life's meaning)について、ノージックの議論より後に英米圏で作り上げられてきた標準的な見解(the standard view)を紹介した後、近年になって提起された新たな問題を5つ取り上げてそれらと標準的な見解を比較検討する。[2]
第二章 意味ある人生(meaningful life)の概念における標準的見解
・ノージック以前には人生の意味は目的の達成や主観的な満足といった要素に基づいて分析されていた。しかし、自分を犠牲にして子供を救う場合など満足していなかったり、どの価値や目的が人生の意味と関係しているのかがよく分からないという問題があった。
・ノージックは真善美といった究極的な価値(final value)と関係することが人生を意味あるものにするとした。シシュフォスの苦役や経験機械につながれる生は何らかの究極的な価値とつながるために自己の限界を超えるということがないため、あまり意味のある人生とは言えないことになる。
→ノージックのこうした考え方に刺激されそれに追随する形で人生の意味の哲学の議論が蓄積されていった。[3]
・これらの議論はそれぞれ細かな違いはあれど3つの基本的前提を共有している。
①種ではなく、個々人の人生の意味について扱う。
②単なる選択だけでなく、スキャンロン言うところの「判断-感応的態度」に裏付けられた行動を扱う。これは、理性的な(rational)反省によって構成されたり、影響を受け得たりするものである。(非道具的な理性に基礎を置くものも特に重視される。)
③特に真善美といった価値を含む合理的な(reasonable)仕事を扱うのであり、経験機械のようなケースはあまり意味のある人生でないとされる。
第3章人類の生に限られない意味?
・動物の人生が意味を持つかが問われる。標準的見解はある程度の自己意識(self-awareness)、知性、行為者性(agency)を持っていれば意味ある人生を送りうるとしているが、動物はどうか?
→メッツは動物の人生の意味の擁護者が概して人間との関係を意味の要件として考えていることに批判的であり、人間や他の生物と肯定的な関係を築くことが動物の(だけでなく人間においても)人生を意味あるものにするとしている。
第4章 個人の生を超えた人類の意味?
・論理実証主義が、「神の言葉」のようなものを真理条件を持たないため無意味だと見なしたことを受けて、そうした超越的な存在を源泉とする意味は議論されなかった。そのため、"the meaning 'of' human life"ではなく、the meaning "'in' an individual's life"が中心的な問題だった。[4]
・最近になって、人類は神によって作られたため人間の人生は意味がある、という主張が復活した。しかし、レイプによって生まれた子供がそれによって人生を意味の無いものと見なすことが不合理であるように、特定の出自であることが人生を有意味にするとは考えがたい。
・それ以外に人類全体に意味を認めるアプローチとして、人類が科学の発展等を実現していることを挙げる者もいるが、この時それに対して貢献していない人もいる以上、なぜ人類の進歩が個々人の人生を意味づけるのかはよく分からない。
・つまり、人類ほど大きな集団では、成されたことと各人との意図的(inrentional)あるいは因果的な関係が付けられないのであり、要するに人類は行為者として適格でない。企業やNGOであれば各メンバーに還元されない独自の意味を持ちうる。
第五章 行為を超えた個人的な意味?
・行為ではなくそれに対する解釈(interpretation)が重要だと論じる者もいる。行為や認知はそれだけでは意味を持たないとする。
・私たちはmeaningという語を様々な仕方で用いる。実質的な結果を指す(NGOの活動は飢餓の撲滅を意味した。)こともあれば、私たちが何について話しているか(この文が意味しているのは…)、何が何に対して責任を持つのか(Smoke means fire.)(※日本語にはない用法だも思われる。)、何をしようとしたのか(※mean to~、でするつもりである、これも日本語にはない用法だと思われる。)など。
→これらの例に共通する本質は、現象を意味づける情報を与えるということである。
・これに加えて、陰謀論のようなものに基づいて生きている人の人生の意味も貧しいものになりそうだというような指摘もできる。
・メッツは「死にそうな赤ちゃんを助ける」というような行為はそれ自体で意味あるものになるとしている。それは例えばそうした行為がその社会における何らかの事情(人種差別等)によって評価されないものであるとしても意味を持つ。
→メッツは語り(narrative)も行為も含む人生の意味に関する多元的な見方が適切であるとしている。
6.行為は非評価的意味を付与するか?(Actions Conffering Non-evaluative Meaning?)
・標準的見解では人生の意味として肯定的なものだけが考えられてきたが、望ましくない(undesirable)なものもある。
・例、ヒトラーの人生は良いものでは無かったが、無意味でもない。
・メッツは標準的見解が規範的、評価的意味に問題をしぼってきたことを鑑みて、このような見解は別の問題であると考えている。例えば、形而上学でも倫理学でも「自己」、「人間本性」等々が共通して俎上に載せられるが扱われ方は全く異なるように。
7.評価的意味、それは偉大なものか?
・偉大な意味と普通の日常的な意味とを区別すべきだという勢力がいる。それは古典的には超自然主義者[5]であったのだが、近年、アインシュタインやネルソン・マンデラ等の偉人を念頭に、無神論の立場から偉大な、精神的な(spiritual)意味を擁護しようとする者たちが出現した。
→実は意味にも、深さや高さ、永続性等の時間的側面等様々な区別があるのではないか?標準的見解はこのことを見過ごしている。
8.結論(割愛、ここだけでも読めば全体の内容が分かる。)
■感想
理性的な判断、行為者としての意図(志向性)についてしばしば触れられていた点が興味深かった。メッツに反して、理性や志向性の働きを語りや説明といった行為を意味づける情報、及び情報整理という観点から人生の意味を考える方が分析哲学の伝統(言語哲学、世界と心との関係等に対する議論の蓄積)と結び付けられるので良いのではないか。しかし、問題を広げ扱いにくくしてしまうという憾みはある。また、行為と語りの関係に関しては所与の神話批判が同型のものとしてそのまま該当するのではないだろうか。理由という概念一般に関してもおそらく主観説、客観説といった人生の意味と同じ区別が可能であり、理由と人生の意味との関係を探るのも良いかもしれない。私が人生の意味に関心を持っている理由の一つとして、分析哲学が意味に関する議論を指示に関する議論に還元してきたことに対してカウンターを浴びせつつ、私たちの実感に即するようなものとして意味の言語分析を行う端緒を開く可能性を孕んでいるから、というのがある。今こそ包括的な形で「意味」の意味を問う時なのではないか?
■参考文献
・Landau, Iddo, ed. The Oxford Handbook of Meaning in Life / Edited by Iddo Landau. [Electronic Resource]. New York: Oxford University Press, 2022.
・Metz Thaddeus, The Meaning of Life/Stanford Encyclopedia of Philosophy,2021.( https://plato.stanford.edu/entries/life-meaning/ )(2007年版を改訂したもの。4月19日閲覧)
・勢力尚雅、古田徹也他『英米哲学の挑戦』(放送大学教育振興会、2023)
・古田徹也、森岡正博「生きる意味を問うとき、私たちは何を考えているのか」(『現代思想 人生の意味の哲学』(2024年3月、vol.52-4、青土社)所収。pp.8-22)
・森岡正博「「人生の意味」の哲学」(『現代思想 分析哲学』(2017年12月臨時増刊号、vol.45-21、青土社)所収。pp.180-185)
・森岡正博「人生の意味の哲学はどのような議論をしているのか」(森岡正博、蔵田伸雄編『人生の意味の哲学入門』(2023)所収。pp.33-52)
[1] 特に外国語文献についてだが、引用表記と要約の仕方が分からない…
[2] 以下では、興味がある部分を自分の言葉で要約してしまっているので、訳の間違い等で不正確になっている部分が含まれる可能性がある。
[3] ※長門裕介「人生の意味の哲学をはじめからていねいに」(動画)( https://www.youtube.com/live/dIKLDKdzEI0?si=tjWhwysrJNCFMayT )によれば、スーザン・ウルフの議論が特に大きな影響を与え、こうした議論をメッツがまとめたことで議論の土台が作られたという経緯だそう。
[4] 英米圏の人生の意味の哲学では、Metzの有名な著作のタイトルがそうであるように"meaning in life"が問題となってきた。この語には人類に意味を与える神という描像はもちろんのこと、何か超越的な意味の源泉を措定してしまうかのような"meaning of life"という言い方を避け、個人にとっての日常的な意味で使われる人生の意味について探究するという方向性の宣言が込められている。しかしながら、meaning in lifeという問い方はむしろ問題圏を切り詰めすぎているきらいもあり、あえて今meaning of lifeを問おうという論者もいる。
「森岡〔前略〕現在では、「人生に意味を与えるもの meaning in life」と「人生の意味 meaning of life」を区別するという考え方が広がっています。前者は、人生に意味を与えるのは何なのか、社会貢献や目標達成が人生に意味を与えるのか、といった議論をしており、後者は、そもそも人生それ自体に意味はあるのか、人類が宇宙に存在する意味は何なのか、といった議論をしています。ただし、二一世紀のアカデミーでは、議論を前者に絞る人が多いという印象があります。古田さんは後者に強いご関心があるのですよね。古田九鬼やカミュがシーシュポスの神話に見出したのは、まさにそういう、一見してまったく無意味に見える人生(あるいは世界)の完璧な表現なんだと思います。」(古田&森岡(2024)p.18)。古田の詳しい議論に関しては勢力尚雅等(2023)の12章参照。
[5] メッツは人生の意味についての哲学的立場を超自然主義、自然主義に区別し、自然主義の下位分類として主観主義、客観主義を置いている。(森岡正博(2017)p.181)。自然主義の下位分類としては近年ではスーザン・ウルフに代表されるようなハイブリッド説や、ニヒリズムが加わることもある(森岡正博(2023)p.41、Metz(2021))。