『本当の自分』なんていない。
※精神的に不安定な方は、読むのを控えてください
「本当の自分に戻りたい」
「本当の私は〇〇だから」
心の中で何度も繰り返してきた、呪文のようなこの言葉。
キラキラして元気だった自分への”憧れ”に近い気持ちは、今の「どうしようもない自分」を痛めつける。
今の自分が嫌いだから。この現実を受け止めきれないから。
現実逃避したい私はいつも、事実かどうかもわからない『本当の自分』にすがるような思いで生きていた。
でも、『本当の自分』なんていないのだ。
今の私が全て。それ以上でもそれ以下でもない。
だから、『本当の自分』に”戻る”ことなんて無理だし、自分が変わるとしたらそれは”進化”なのだと思いたい。
(たとえ、以前の自分に比べてできることが少なかったとしても)
*
私は大学の時鬱になった。
きっかけは、元恋人のDVとモラハラ。
大学入学を機に一人暮らしを始めた私の部屋に転がり込んできた彼は、慣れない大学生活でいっぱいいっぱいの私に向かって
「お前なんか社会から必要とされていない」
「みんなから嫌われている」
と、毎日のように人格を否定する言葉を浴びせかけた。
最初こそ「なんで他人にこんなこと言われなきゃいけないんだろう?」と思っていたが、そのマトモな感覚は次第に麻痺していった。
ごく平凡な家庭で育ち、叱られ慣れていなかった私にとって、独特な訛りで口汚く罵ってくる彼の言葉は恐怖でしかなかった。だから反抗することもできなかったし、『彼の常識』に合わせるしかなかった。
料理したことがないのにレシピを見るなと怒られたし、グループ課題でみんなが徹夜する中、私は彼のためにご飯を作りに帰らなければならなかった。私がそう振る舞うことが、彼にとっての当たり前だった。
私の両親が送ってくれる仕送りは、彼との食費やゲームセンターのUFOキャッチャーに消えていった。大学で学ぶ貴重な時間も、お金と同じく消えていった。今も思い出すと胸が痛い。
ドラマでしか見たことのない非日常が私の日常になり、平凡に生きていくはずだった私の人生はグチャグチャになった。そして、心はどんどん死んでいった。
しんどかった。
毎日死にたくてしょうがなかった。死ぬことしか考えていなかった。
別に死にたくて死ぬわけじゃない。私は生きたかったから。
でも、死なないとこの苦しみから解放されないと思っていた。だから死にたかったのだ。
その時だったと思う。
「本当の自分に戻りたい」
という、呪いのような言葉を覚えたのは。
*
それが鬱だと知ったのは、1年くらい経って初めてメンタルクリニックを受診した時だった。(その時は症状がマシになっていた)
皮肉にも、そのDV・モラハラ男と一緒に行った。
DVやモラハラを受けたことがない人に理解できないだろうが(しなくていい)、人格否定され続けた人間は、次第に相手の言うことがを正しいと思うようになる。
それどころか、「この人がいないと誰も私の相手なんてしてくれない」「この人がいなくなったら、私は間違った道に進むかもしれない」と、異常な考え方をするようになる。
こうなったらもう、離れられない。そして、相手は「自分が正しい」と思わせてくれる都合のいい存在を手放そうとしない。
それでも別れを切り出したことは何度かあった。
でも、相手から別れ話をされるなんて、DV・モラハラ男のプライドが許さない。泣き落としでも、脅してでも、どうにかして繋ぎとめようとする。(家族みんなぶっ殺す、なんて何度も言われた)
1年間、そうやってずっと付き合っていた。
暴力こそ落ち着いたものの、喧嘩するとキレるのは相変わらずだったし、私の悩みのほぼ全てが相手との関係で。
医師に「鬱状態だったんでしょうね」と言われた時、隣に座っていた彼に心の中で「お前のせいだ」と言った。
付き合って半年ほど経った頃、あまりにもお金の減りが激しく連絡が取れない私のことを心配して両親が訪ねてきたりした。
私はその時助けを求めたくせに、結局離れられなくて裏切ってしまった。両親からは愛想をつかされた。自分達にも相手にも都合のいいことを言う、”二枚舌”だと突き放された。
*
結局、その男とは3年半も付き合った。
いつも相手のことを気持ち悪いと思いながら一緒にいた。どうかしてる。
でも、それも仕方のないことだったと思う。
本当に頭がどうかしてたんだから。
修羅場みたいな別れを経験して、私はやっと『本当の自分』に戻れると思った。だって、全ての原因であるその男は私の人生からいなくなったのだから。
でも、”洗脳”された私の無意識下に、その人はずっといる。
私は自分のことを「価値がない人間」と思うようになり、何をするにも自信がなかった。常に周りと自分を比べ、苦しかった。
『本当の自分』に戻ったら…
もっと元気で、明るくて、自分に自信があったあの頃に戻れたら…
何度もそんな風に考えた。
だけど、いつしか自分が思い描く『本当の自分』は、『なりたい理想像』にすり替わっていたし、過去の自分がそれほど素晴らしい人だったかと言われると正直わからない。私は現実逃避するために『本当の自分』にすがっていたのだ。
別にそれが悪いわけじゃない。
仕方なかったのだ。
*
『本当の自分』なんていない、と知ったのは鬱に関する書籍を読んだからだ。(うつからの脱出 プチ認知療法で「自信回復作戦」)
印象的だったのは医師である著者を訪ねてきた女性のエピソード(『最近本当の自分ではない』と訪ねてきた)なのだが、長くなるので著者の考えだけ引用する。
”本当の自分”ではないと感じる時、ほとんどの場合、複数の自分がうまく噛み合わないで、ある自分が我慢している状態を表現していることが多い。大体の場合そのがまんしている自分とは、自由にしたいとか、大切にされたい、安心したい、もっと気楽にやりたいなどの欲求のことを表しており、現実に生きている限り、それらが全て思うようになることはほとんどない。つまり、”本当の自分”は幻想なのである。
”本当の自分”などがあるわけではなく、あるのはどれもあなたを支えようとする複数の気持ちだ。”本当の自分”幻想は、ある特定の気持ちを否定する発想だ。つまり自己否定。
このような幻想にしがみついていると、精神疲労からの回復が遅れてしまう。
出典元:うつからの脱出 プチ認知療法で「自信回復作戦」
この説明の後には『エゴグラム』と言う心理テストがついており、それを行うことによって様々な自分の特性の大小を知ることができた。
参考:エゴグラムとは
それまで「『本当の自分』に戻りたい」と必死になっていた私にとって、「”本当の自分”は幻想なのである」と言う著者の考えは衝撃的だった。
でも、いつの間にか「戻らなくちゃいけない」と思い込んでいた私を救う言葉でもあった。
”本当の自分”ではないと感じる時、ほとんどの場合、複数の自分がうまく噛み合わないで、ある自分が我慢している状態を表現していることが多い。
まさにこれだったのだ。
*
『本当の自分』幻想から解放された私は、過去の自分を省みることが少なくなったように思う。
「本当の自分じゃない」と感じるときは、複数ある自分(の気持ち)のどれかが我慢をしている。そう考えると、今我慢している自分はどれだろう?と冷静に考えられる。
自分自身に気持ち悪さを感じるのは、環境が合っていない時の気持ち悪さにも似ている気がする。きっと環境みたいに可視化できないから、そんな気持ち悪さも見過ごしてしまうのだろうけれど。
私は今も自己肯定感が低い。簡単には治らないかもしれない。(最近クリニックで受けた診断でも、自己肯定感の値が著しく低かった)
だけど、今の自分や状況が気持ち悪いからといって、『本当の自分』幻想にしがみつくのはやめよう。どれも自分の一部と受け入れよう。
そうやって、少しずつ私は私を知っていくのだ。
*
『本当の自分』なんていない。
たとえ過去の自分よりできないことが多くても、負けずに一歩踏み出す自分は”進化”している。そう信じている。
※鬱とDV・モラハラのトラウマはまた別物なので、あくまで私の解釈としてください
あと、今は幸せだし自分のことも好きです!!
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