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うつだった私が花に救われた話

初めて正式にうつと診断されたのは大学1年生の時で、大学生活を頑張りすぎたのが大きな原因だった。すでに2回目の1年生をやっていた私は大学を辞めることも考えたけれど、先生や両親の勧めでひとまず休学という形をとった。

当時は大学の近くにアパートを借りていたので、ちょっと買い物に行こうものならクラスメイトと遭遇してしまう、そんな環境だった。
私は”休学している”ということに謎の後ろめたさを感じ、次第に部屋を出るのが難しくなった。

6畳ロフトつきの部屋は一人暮らしの大学生には充分だけれど、外に出られなくなってしまった私にとっては檻のように窮屈だった。

毎日変わるのは窓の外の明かりくらいで、朝がくると遮光性の低いカーテンが役目を果たさず光を取り込み、一日中自分を責めて悩むうちにレースカーテンごしに夜がやってきた。毎日それの繰り返しだった。

隣人の生活音や向かいのアパートで開かれる飲み会の気配を感じると、私以外のみんながきちんと毎日を積み重ね”生活”し、”生きている”と感じた。

朝と夜がくるだけの何も変わらない部屋で、毎日同じ悩みをぐるぐると考えている私とは違う。私は生活していなければ生きてもいない。ただそこに”いる”だけだった。

顔を洗う、ご飯を作って食べる…自分なりにできることを積み重ねているつもりでも、ちょっと気を抜くとそんなことは当たり前にできていた過去が小さく積み重ねてきたものたちを一気に崩してしまう。

きっかけは覚えていないけれど、久々に外に出られたある日のこと。
用事を済ませた帰りに、偶然近くの花屋の前を通った。

おしゃれなアレンジメントや寄せ植えみたいなものは見当たらない古く小さな花屋で、黒のビニールポットに入った花たちがそれぞれ綺麗に咲いていた。容れ物が黒いせいで花の鮮やかさが一際目立つ。

もともと買うつもりなんてなかったのに、花を眺めているうちに一つの鉢植えを手にしていた。ビニールポットに収まらない少し大きめの株は、さらに大きな白い鉢に入れらたせいでかえって小ぶりに見えた。

鉢の大きさはこれから大きくなることを想像させ、花は自分の与えられたスペースを贅沢に使って綺麗に咲いていた。赤色のカランコエ。
少し先の尖った花びらが集まり咲く姿は小さな紫陽花のようで、水分を含んでぷっくり艶やかに広がる葉が印象的だった。

予定外の買い物でお金の心配をしつつも、気持ちは少し軽かった。

帰宅した私は花をどこへ置いていいのかもわからず、高校生の時に1000円で買った安い折り畳みテーブルの上にひとまず置いてみた。

急に連れてこられた花は「花が似合う部屋」とは言えない私の部屋の中で浮いていたけれど、存在しないだろう花の絵が沢山散りばめられたベッドカバーを背に堂々としていた。生きている感じがした。

ただそこにいるだけで生きている実感がなかった私の生活に、別の生き物がやってきた。生き物と呼ぶには大袈裟かもしれないけれど、毎日その尖った花びらをめいいっぱい広げる花を見ていると、”植物”というより”生き物”と表現する方が正しい気さえした。

昨日は閉じていた蕾が今日は少し膨らみ、その奥の真っ赤な色を覗かせる。昨日は咲いていた花が”咲く”という植物の一つの役目を終えてひっそりと影に隠れる。

それだけのことなのに、毎日何かしら変化するカランコエを見ていると少し心が楽になった。しんどくてあまり手入れができなくても、もともと水やりをそれほど必要としない花は私のズボラな世話と関係なく元気に咲いてくれた。

ペットのように何か喋ったり触れ合えるわけではない。
でも、疲れていた私にとって、当たり前のように毎日花を咲かせてくれるその生命力がありがたかった。
当たり前に咲いて、当たり前に”生きて”いた。

それから少しずつ花が増えていった。
窓の外に申し訳程度に設置された、バルコニーと呼んでいいのかわからないスペースに赤やピンクや黄色や水色…色鮮やかな花がいっぱい咲いた。私の小さなお花畑になった。

体調は1年かけて少しずつ良くなっていった。
その間、季節ごとに違う花が咲き、「朝がきて夜が来る」以外の変化を感じられるようになった。どの花も本当に美しかった。

手間のかかる花は容赦無く枯れていき、枯れた花を見て落ち込むこともあった。でも、少しの間でも綺麗に咲いてくれたことに感謝し、花を育てることはやめなかった。

そして、少しずつ外に出られるようになってからは、それまで気づかなかった場所に綺麗な花が咲いていることに気づき、ただ外を歩くだけでも楽しくなった。

今でも外を歩けば花ばかり見ている。
昔育てていたものと同じ花が誰かの家を鮮やかに飾っていると、名前を言わずにはいられない。

特に赤色のカランコエを見つけた時は、何だか切ないような幸せなような不思議な気持ちになる。そして、勇気づけられるような気がする。

ただ咲いて散るだけの花が、きっと私だけではなく誰かの心も救っている。そう思うと、目の前の花だけなく、道端に咲く野花さえも愛しく思える。

おしまい。

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