写真家・田村尚子さんのお話(2)
「インタビュー|からむしを績む」では、これまで本の制作に関する話題を中心に、編集者である信陽堂の丹治史彦さん・井上美佳さんと、ブックデザインを手がけられたtentoの漆原悠一さんの視点から、それぞれお話をうかがいました。
一方で、『からむしを績む』の写真を担当された田村尚子さんは、「本づくり」という目標が定まり動き出す以前から、昭和村・からむし・渡し舟のおふたりと出会われていました。そうしたなかで、流れる時間と積み重ねられてきた物事から発される、この土地ならではの小さな印を受けとりながら、場所の持つ魅力や「気配」の立ちのぼる背景へと想像を巡らせる時間を過ごされたと言います。
第2回では、昭和村に通い始めた当初に出会った印象的な景色や出来事とともに、同時期に制作されていた写真集『柿』(こけら)についてお話いただきました。
しばらくはただ「見ていた」
昭和村を初めて訪ねられたのは、日本で古来から続く山あいの文化や風土的な物事へと、田村さん自身の関心が重なるタイミングでもあったのですね。一度目の訪問が雪深い冬の時期で、二度目はからむし引きが行われる夏と対照的な季節に訪ねられて、それぞれどんなことを感じましたか?
田村 最初に訪ねたのが冬で良かったなと思います。私はふだん京都で生活しているので、雪道を歩き回るだけでも楽しかったですし、新鮮でした。あれだけ多くの雪に覆われたなかで「この雪が解けたらどうなるんだろう」と、色々イメージを重ねていたけれど、冬と夏では想像以上に雰囲気が違うことにも驚きました。
冬の一面真っ白な雪景色に対して、夏は田畑や山の緑と広い空。自然そのものがあらわになるとともに、山から流れてくる水のキラキラした感じや草むらを歩いて朝露で靴がぐっしょりと濡れたことも印象に残っています。そうしたなかで緩やかに、渡し舟のおふたりと知り合っていった感じもよかったです。
当初、田村さんはどんなふうに昭和村やからむしと関わっていたのでしょうか。
田村 冬に渡し舟のアトリエで見た、からむしの百匁(ひゃくもんめ)の束*1 の印象がとても強かったのですが、夏に再訪して、からむし畑に実際に行って見るまでは、からむし自体は、まだずっと遠い存在でした。
当時は、鞍田さんのフィールドワークに参加させてもらいながら、織姫さん*2 たちのインタビューに同席したり、カスミソウのレクチャーを受けたり、どういう人たちによって昭和村のいとなみが今に続けられているのかを少しずつ知っていく時期でもありました。スケジュールもきっちり決まっていましたし、夜には村の人たち含めて大勢が集まるなど、合宿を含めて未経験なことも多く、新鮮な反面で戸惑いもありました。
途中からフィールドワークの全ての行程に同行せずに一人で散策に出かけたのは、自分なりの視点から村を知る時間が必要だったからだと思います。なぜかというと、自分自身のなかに「撮りたい」という欲求が出てこないまま、いきなりカメラに向かえないというか。その感覚を掴めるまでは、その辺を歩いて何か撮れたら撮りたいなという感じで、ぷらぷらしていましたね。
田村さん自身の「撮りたい」という欲求や感覚は、どのように掴んでいきましたか?
田村 しばらくのあいだは見ていたという感じです。自分に新しく入って来るものーー例えば空気感とか、朝靄とか、夕焼けや川辺の散歩で季節を感じたり。神社へ出掛けたときに「この村は神社をとても大事にしているんだな」と気がついて、そこは重要なポイントとして印象に残っています。何箇所か訪ねたなかでも、喰丸地区の奧にある熊野神社の階段を上がったら地面一面に苔が生えている境内の様子も美しかったし、どこも放置されることなくほどよく草刈りや手入れがされていて、神社を包む空気が綺麗でした。
からむし工芸博物館 *3では、古い文献をたくさん見せていただきました。あとは、渡し舟のおふたりに村のおばあちゃんのお家に連れて行ってもらって日常を垣間見たり、昔の話をうかがったり、村の歴史や生活のことを色々と教えてもらいながら、自分でも少しずつ踏み込んでいけるようになったときに、だんだんとリラックスした気持ちで向き合えるようになっていきました。
昭和村は駅からも遠く離れていますよね。人里離れて山の奥深くへと入った先に村がある、ああいう感じも私はすごく好きなんです。以前、『ソローニュの森』*4 の撮影で通ったフランスの精神病院「ラ・ボルド」も駅から車で40分ほど離れた場所にあって、どこまでも続く大きな木立の道筋をくぐり抜けていき、その先に入口がありました。
目的の場所へは、なかなか辿りつかないんですね。
田村 あの距離感や行くまでの道のりや入口感というのは、おもしろいなぁと思いました。
2016年は、並行して写真集『柿』(こけら)を制作されていたのでしょうか。
田村 そうですね。『柿』*5 は、京都の紫野にある大徳寺の塔頭、真珠庵の書院「通仙院」の屋根の保存修復のために行われる葺替え工事とあわせて茶室「庭玉軒」修復の記録を残したいとのことで、真珠庵のご住職である山田宗正さまよりお声かけいただきました。初めて昭和村を訪ねた翌月、2016年2月から修復工事の様子を撮影するため、月に3、4回ほど大徳寺へ通い、写真集が完成したのが2017年11月ですね。
昭和村やからむしのことを知り始めた一方で、日本の伝統的なものづくりにも向き合っていたのですね。
田村 葺師(ふきし)の職人さんたちの仕事ぶりに触れるうちに、「柿葺」の素材となる椹(さわら)の木はどこからやってくるのだろう?と思い、南木曽の国有林を訪ねる機会を得て、素材のもととなる木々が育つ森のなかを歩いたこともありました。
この経験はとても大きかったです。『柿』のあとがきにも書きましたが、職人さんたちの仕事の向こうにある「木と森への崇敬の念」を肌身に感じたというか。そういう意味では、自然とのつながりに惹き寄せられる気持ちが、昭和村の訪問と『柿』の仕事を通して、じわじわと自分のなかで積み重なっていった時期だったのかもしれません。今から思うと不思議なくらい、ふたつのタイミングが一致していたんですね。
((3)「放棄されるのではなく、今も在るということ」へ続きます)
表紙写真:鞍田崇 村内で撮影する田村尚子さん(2016)
聞き手:髙橋美咲
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