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なんなん。

宇多田ヒカルの「七回目のベルで受話器を取った君」って歌詞が幼心に忘れられずに、今でもどのタイミングで電話に出ようかな、なんて鳴り続ける電話をしばらく見つめてみたりする。だけど、相手からの着信が切れてしまわないうちにとらないと。時々、思いの外着信が短くて慌ててスワイプするけど間に合わない、なんてこともある。そんな時は相手の見切りの早さに「ちぇ」っとなりながら、変な駆け引きをした自分のことを心の底から恨む。

それにしても電話の、あの独特な距離感は不思議だ。

いくら仲が良い相手でも、電話が鳴ると少し身構える。急な存在の出現に、おしゃべりの準備ができていない私は戸惑い、時々悩む。たとえ出なくても、なんとか言えばなんとかなるし。ああ、でもかけ直すのもな、なんて思っているうちに「ええい!」と出てしまったら最後、2時間も3時間も平気でおしゃべりしてしまう。深夜の女友達の出現は非常に危険。

恋人との電話も困る。いつも近くにいる人が電話の向こうで雑踏にまぎれて、よくわからない電波状況のなかでぼそぼそとしゃべってくる。途切れ途切れの声に適当な相づちをうつけど、電話はしゃべることしか許してくれないから、気が気でない。いつもの沈黙も隣にいればキスで埋まるのに。電話で話さないといけない距離が、なんだか寂しさを少し引き立たせる。だけど、私の寂しさと同じくらいの声が返ってくるから、それがとても嬉しくて結果的に私の声は弾んでゆく。

なんなん。喃喃。最近、紙の国語辞典を買った私は楽しくてページをぺらぺらとめくっている。そこで見つけたなんなん。「他人に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、感情を交えながら話す形容。男女がうちとけて小声で楽しそうに語り合うさま。」

電話ってなんだか喃喃だな。いつものおしゃべりよりずっとくだらないけど、ずっと秘めごとのような気分になる。ふふふ、と笑いたくなる。国語辞典がうみだすロマンチック。いつでも私は想像力豊かだ。こんな電話、したいな。


2016年10月27日

「サウダーヂな夜」という変わったカフェバーで創刊された「週刊私自身」がいつの間にか私の代名詞。岡山でひっそりといつも自分のことばかり書いてます。